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 ふるさと探訪から見えるふるさとの風景  <FIND・DISCOVER 見付ける/発見する>
 ふるさと自然探訪から ふるさと歴史探訪から 
 ふるさとの川と橋  ふるさとの山  伝統祭り  ふるさと文化財
ふるさとの自然や歴史・風物を探訪するとそこには、大自然を形成する雄大な山々と川や平野の豊かな自然、そして太古の時代から延々と営まれ、育まれてきた歴史との出会いがあり、色々なふるさとの風景が見えてきた。川に架かる橋の上に立つと景色の風景だけでなく、水質、川の歴史や人々のくらしの風景が見えてきた。川と橋巡りはふるさとの山々や自然を探訪するきっかけともなり、自然の大切さを認識し、自然を元気にする活動へのきっかけとなった。
 一、ふるさとの川と橋の風景 ふるさとの川と橋風景
 肝属川風景
肝属川は高隈山系に源を発し、大隅半島のほぼ中央に位置する一級河川で高隈山系から肝属平野を通って、志布志湾に注ぐ長さ34Kmの一級河川だ。支川の数が35本あり、下谷川、姶良川、高山川、串良川が代表的な支川だ。109ある日本の一級河川では最南端を流れている。自然に恵まれた平野を流れる肝属川は、人々の生活を支え、農耕文化を発展させてきた。一方、長さが短いわりに高低差があるため流れが急で、川の水が一気に下流へ流れる特色があり、過去大水害に見舞れ、水害との戦いの歴史でもあった。流域にはこれまでの川と人々の生活との関わりを示すいろいろな遺跡、祭り、伝説等が残っていた。
 
国見岳山頂から遠望する肝属平野と肝属川風景。大隅半島の中央を貫流する肝属川は、古代から豊かな文化と暮らしを育んできた。遠くに高隈山連山を望む。
   肝属川橋巡り  
  肝属川を知るために川の橋巡りから始めた。橋の上に立ち止まり、まわりを見渡すと、これまでに気付かなかった新鮮な美しいふるさとの風景が目に飛び込んできて、子どもの頃、川の中や堤防で遊んだなつかしい思い出の風景が浮かんできた。ふるさとの川を元気にし、子どもたちが遊べる川をもう一度とりもどしたい。 そんな想いと願いが橋巡りとるさと探訪のきっかけとなった。
 橋巡りの実際

「肝属川橋巡り」が地元紙新聞「南九州新聞」で50回にわたってシリーズで連載された。

国交省大隅河川国道事務所が管理する最上流の大園橋
国交省が管理する肝属川に架かる橋
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大園橋 外園橋 祓川橋 井之上橋 樋渡橋 王子橋 山中橋
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安住寺橋 見取橋 10 柳 橋 11 ふれあい橋 12 鹿屋橋 13 新町橋 14 平和橋
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15 朝日橋 16 昭栄橋 17 栄 橋 18 古城橋 19 狩長橋 20 沢尻橋 21 新川田崎大橋
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22 役所の下橋 23 大正橋 24 河原田橋 25 馬込橋 26 流合橋 27 宮下橋 28 永田橋
5ページ(地図から入る)    (上空写真から入る)
29 高良橋 30 池之園橋 31 俣瀬橋 32 第二有明橋 33 第一有明橋 高架橋「鹿屋大橋」 河口
0地点
 橋の河口からの位置、設置年月日、橋の長さのそれぞれのデータは国交省大隅河川国道事務所資料提供による 
肝属川橋風景と橋の歴史
  ふるさとの橋を巡ると川の歴史と人と人とのかわわりの深さが見えてくる。
 橋を一つ一つ巡ると、橋は、人と人とを繋ぎ、文化と歴史を受け継ぎ、人の暮らしと川との関わりがあり、様々な風物や歴史を刻んでいた。橋巡りは、また、肝属川が水害の繰り返しの歴史だったことを教えてくれた。洪水の度に人の生命や財産が失われ、これまでいくつの橋が壊され流されてきたのだろう過去の災害の歴史を決して風化させてはならない想いを強くした。
 
現在の樋渡橋、後方に高隈山御岳を望む

大正末期の木造の樋渡橋。かつて橋は、夕涼みをしながら人が集まる交流の場でもあった。  
↑橋風景。肝属川は災害の歴史でもあった。洪水の度に人の生命や財産が失われてきた。これまでいくつの橋が壊され流されてきたのだろう。 橋巡りを通して水害の歴史から安心・安全な治水の大切さを痛感した。
 
現在の鹿屋橋
 
昭和2年架橋の鹿屋橋
 右上の白黒写真は昭和初期の鹿屋橋で昭和14年に写された写真である。建物は当時の町役場(市役所)である。この橋は昭和2年に架橋された橋で、それまでは木製であった。はじめてコンクリートの橋が鹿屋川(肝属川)に架かって、そのころの名所の一つになった。
 
現在の高良橋(手前の中州は鉄橋の跡)
 
高良橋と大隅線
 高良橋と肝属川風景 この橋は高山と串良とを結ぶ要衝の橋で、高山の高、串良の良をとって「高良橋」と名付けられた。かつてはこの橋に並行して国鉄・大隅線が走っていた。   映像を見る
 
肝属川支川高山橋
 
高山川橋たもとの水害史碑
肝属川は水害の繰り返しの歴史だった、そして今も。高山橋たもとの水害史碑は、過去の大水害の歴史を教えてくれた。 
 
第二有明橋

第二有明橋と第一有明橋(昭和3年)
 右写真は、肝属川最下流に架かる第二有明橋と第一有明橋で昭和3年の映像である。東串良町柏原と高山波見を結ぶ橋で中島を中継地にして第二有明橋と第一有明橋で合わせて400mを超える南九州一の長さを誇る木橋であった。鹿屋・垂水・肝属の100年写真集より
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二、ふるさとの山風景    大隅の山一覧
   ふるさとの山探訪・大隅の山風景
 川は山と海への架け橋だ。川が元気であるためには山が元気でなかればならない。このことがふるさとの山探訪のきっかけとなった。 大隅半島の山は肝付平野を境に高隈山系を中心とした大隅半島中央部の山々と南部には国見山系の甫与志岳、黒尊岳、国見山があり、さらに南へ照葉樹林帯の稲尾山系を中心とした尾根が続く。美しいかこう岩の渓谷や滝も多く、滝巡りや巨木巡りのきっかけとなった。

 大隅の山々探訪記、一部を紹介。順不同    →詳細は大隅の山一覧へ
八山岳 錦江町 鹿屋市 刀剣山 垂水市 神野中岳 鹿屋市
高隈山御岳 鹿屋市 稲尾岳 錦江町・肝付町 国見山 肝付町
権現山  肝付町 高峠 垂水市 たかくまふれあいの森 鹿屋市
甫与志岳 肝付町 辻岳 南大隅町 木場岳 南大隅町
白鹿岳 曽於市 陣ヶ岡 曽於市 二股・金弦の森 肝付町
大篦柄岳(おおのがらだけ)  横岳(高隈山系) 垂水市 荒西山  錦江町・肝付町
     
 六郎館岳 錦江町・肝付町  岸良北岳(肝付町)  野首岳 南大隅町
     
 大尾(うお)岳 御在所岳(志布志市)    悠久の森 曽於市財部
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 三、ふるさと伝統祭り風景  大隅祭り風景一覧
 農耕文化の息づく大隅半島の河川流域や水田地域には、稲を守り、稲の豊作をもたらす田の神様(たのかんさあ)が祀られ、人々は豊作を祈願しながら四季折々、稲作の豊穣を願い、春祭り・八月踊り、カギ引き祭り、棒踊りなど、大隅半島ならではの伝統民族芸能を受け継いできた。
四十九所神社流鏑馬 弥五郎どん祭り 荒佐祭り・神舞



だご祭り 正月踊り 二十三や市



山宮神社春祭り(鹿屋市) 中津神社(鹿屋市)鉤引き祭り 東串良ルーピン祭り・甚句おどり
お釈迦祭り 高須町「祇園祭・刀舞」 笠野原「十五夜大綱引き」
     
 鹿屋市吾平「臼おこし」   肝付郡内之浦「ドヤドヤサー 肝付町「鎌踊り」 (動画) 
     
肝付町「鬼火たき 肝付町八月踊り  鹿屋市王子町鉦踊り 
     
 鹿屋市 「祓川棒踊り 南大隅町 「御崎祭り」   肝付町岸良「テコテンドン
春祭りは、新暦2月から3月にかけて主に大隅半島の各神社で豊作を予祝して行われる祭りで打植祭り、正月踊り等の呼称がある。肝属平野一帯では、旧暦8月15夜の前後に日を決めて、水神に豊作を感謝して水神祭が行われる。 
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 四、大隅の文化財  大隅の文化財
 大隅半島には県内最大級の唐仁古墳群、塚崎古墳、横瀬古墳を初めとして、大隅の歴史の足跡を示す史跡文化財が数多く残されている。近年、鹿屋市の古墳時代の遺跡からは象嵌を施された刀が出土し、話題を集めている。また、東九州自動車道の計画路線上にある串良町細山田の町田堀遺跡では縄文時代、弥生時代、古墳時代の貴重な遺跡が発見され、発掘作業が続けられ、太古の記憶が蘇ろうとしている。
 
 大隅の文化財「記念物(史跡)
 ※唐仁古墳群  塚崎古墳
   
 中心となる1号墳は大塚古墳と呼ばれ、大塚古墳(一号墳)を中心とした前方後円墳と円墳合計約140余基の古墳群で、1934年(昭和9年)1月22日、国の史跡名勝天然記念物の指定をうける。古墳群の中心に位置する大塚古墳は県内で最大級の前方後円墳で、直径185m、高さ11m前後ある  現在44基、このうち5基が前方後円墳で、円墳39基が残っている。第1号墳は直径15m,高さ3.3m の円墳で,墳丘のクスの大木は,国の天然記念物に指定されている円墳の42号墳は直径65メートル、高さ6.5メートルあり花牟礼にある。39号墳は墳長80メートル、高さ約10メートルもあり同じく花牟礼にある。
横瀬古墳  高山城跡 
   
 後円部頂上付近に「竪穴式石室」があるが、明治35年(西暦1902年)盗掘され、その際腐食した直刀、鎧と曲玉類が出土、内部は朱塗りであったという。墳丘およびその周辺より円筒埴輪片、形象埴輪等が出土している。前方後円の完全な形態を残していることで有名だ。  高山城は高山本城又は、肝付城とも称され、天正8年12月第18代兼道が阿多に移されるまで肝付氏の居城であった。文献の上では肝付兼久が叛(そむ)いたといって島津氏11代忠昌が自ら柳井谷に本陣を構えて永正3年8月6日から10月12日まで攻撃したが攻略できなかったという記録が残る。
 ※佐多旧薬園  ※根占町川南宇都の板
   
 佐多旧薬園(きゅうやくえん)は旧島津藩の薬園跡で、この園内にはリュウガン、レイシ、オオバゴムノキ、アカテツ、ガジュマル等、当時としては珍しい植物や薬草が栽培された場所で、これらは本草学に造詣の深かった島津氏第25代当主(薩摩藩の第8代藩主)島津重豪(しまづ しげひで)が薬園の経営につとめたという。  根占町川南宇都の板碑。宇都の板碑。西応六年(1293)の紀年銘があり、本県最古の板碑とされる。禰寝四代清親時代の建立であ。総高1.35m,身部の上の幅43cm,下の幅53cm,厚みは上部で28cm,碑身の上半部にキリーク種子を薬研彫りし,その下に紀年銘がある
※土持堀の深井戸 
   土持堀(つっもっぼい)の深井戸は笠野原台地の開発の苦難の歴史を物語る貴重な遺跡だ。掘られた時期は文政年間から天保年間(1818〜1843年)頃と見られている。井戸の深さ約64m、表面の直径約90cm、円筒形の素堀りである。深井戸のため当時は、人力で水を汲み上げるのは大変で、牛に綱を引かせて井戸水を汲み上げていたという。927年(昭和2年)、笠野原簡易水道ができ、水の苦労がなくなった。

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