ふるさと歴史探訪記 大隅路の西郷どんと島津斉彬公の足跡  
西郷ドンと 斉彬公の足跡  大隅半島には、「西郷南州翁宿所跡」、斉彬公が巡検の折、使用したとされる「手水鉢」の史跡が残る。その他、台場の「砲台跡」、田代の「お茶亭跡」など、当時の歴史を偲ぶ先人の貴重な史跡が残されている。ふるさと探訪で出合ったそれらの足跡一部を「大隅に足を延ばした西郷どんと斉彬公」のタイトルで振り返ってみたい。
  ~歴史探訪「大隅路に足を延ばした西郷どんと斉彬公足跡」~
 サイトの内容
  大隅路の西郷南州翁宿泊所跡  台場公園  田代花瀬 
西郷どんと高須   西郷どんと南大隅  砲台跡   手水鉢  お茶亭跡
 大隅路の西郷南州翁
宿泊所
 大隅路に残る『西郷南洲翁宿所』 
 西郷南洲翁(愛称西郷どん)は、大隅へ足を延ばし高須や、小根占(現南大隅町)で 狩猟を楽しまれたという。このサイトでは別掲の二か所をまとめて「大隅路の西郷南州翁宿泊所跡」として集約し、文献や現地探訪の案内看板をもとに写真と一言コメントで再掲した。
西郷どんと高須   西郷どんと高須 鹿児島県鹿屋市高須
鹿屋郷土誌(昭和15年刊)によると「 西郷隆盛は、年に幾回も当高須へ来られた。其の度の宿泊所は北高須、高須川沿いの田中吉右衛門の宅であった。」「翁は当地を基地として、近隣の山野に狩猟された。又高山、小根占、大根占等への基地でもあった。」・・・・・。」とある。
 昭和初期撮影の西郷翁宿泊の家
昭和初期撮影の西郷翁宿泊の家『鹿屋郷土誌』からの転載現在は跡地だけが残り家財の一部を使い、よく狩猟をされたという霧島ヶ丘公園の地に、茶屋として建築された建物と案内板がある。(後記)
 案内板除幕と記念講演会  「西郷どんと高須」案内板除幕と記念講演会   2017/2/5
 明治維新150年を迎え、西郷どんが幾度も宿泊されたという高須で案内板の除幕と記念講演会があった。案内板は西郷の宿泊地近くに立てられ、鹿屋郷土誌をもとに西郷と高須の由来を示すくわしい内容になっていた。
 「西郷南州翁ゆかりのまち、高須」案内板の説明内容  「西郷どんゆかりのまち高須」看板から
 明治10年(1877年)の「西南の役」の直前、西郷南州翁は高須に滞在宿泊され、高須川から征かれました。以下、『鹿屋郷土誌』(昭和15年刊)の記述を紹介します。 「西郷隆盛は、年に幾回も当高須へ来られた。その度(たび)の宿泊所は北高須、高須川沿いの田中吉右衛門の宅であった。」「翁は、当地を基地として、近隣の山野に狩猟された。又高山、小根占、大根占等への基地でもあった。」  明治10年2月、いよいよ私学校の生徒達が事を起こすと、高須におられた西郷翁のもとへ、早船が来ました。その時、宿の田中吉右衛門の息子・喜袈裟(=当時10歳)の目撃談として、次の証言が誌に記載されています。「鹿児島から来た船は大きなくり船で、漕ぎ手が五人で、迎えの人は背のすらりとした稍(やや)やせ型の立派な武士で、父が、この人は翁の弟(=小兵衛)だ、と言った。」 「この迎えの人が来ると、翁は『オイドンが出にゃヤッスイメカイ』と言って間も無く、宿の直(じ)きの岸から船に乗られた。」 
 その後「今般政府へ尋問の筋これあり」との大義のもと、2月15日、50年ぶりとも言われる大雪の中、薩軍の一番隊が鹿児島から熊本方面へ出陣したのでした。 明治10年から140年にあたり、高須が西郷隆盛翁の縁(ゆかり)の地」であることの証(あかし)として、これを設置します。 平成29年(2017年)2月  高須町内会
新設された案内看板  
 四郷宿泊地の近くに新設された西郷と高須の由来を示す「西郷南州翁ゆかりのまち、高須」案内看板
  西郷翁宿泊地建物跡
案内板設置場所



案内板設置除幕式
 西郷翁宿泊地建物跡近くで行われた案内板除幕式
西郷翁宿泊地建物は拡張河川改修による工事で家財の一部が霧島が丘公園庭園に移設
 
 西郷翁宿泊地建物跡(左正面白壁建物)と案内板設置除幕式(右テント)。 
 
西郷翁宿泊地跡

 案内板除幕風景(高須の西郷どんとツンも登場)
 霧島ヶ丘公園日本庭園南州庵  南州庵と鹿屋における西郷隆盛 < 霧島ヶ丘公園日本庭園南州庵案内板から>
・・・その宿泊所は、高須町・高須川沿いの田中高須川沿いの田中吉右衛門の宅であった。この南州庵は、その吉右衛門の孫にあたる田中陽蔵氏のご好意により隆盛翁が宿泊されたその家財の一部を使い、よく狩猟をされたというここ霧島ヶ丘公園の地に、茶屋として建築したものである。・・・・・
 霧島ヶ丘公園日本庭園南州庵案内板  
南州庵と鹿屋における西郷隆盛」案内看板
  霧島ヶ丘公園日本庭園南州庵    
 霧島ヶ丘公園日本庭園南州庵
西郷どんと南大隅町   西郷どんと南大隅町 鹿児島県南大隅町
 南大隅町に残る西郷南州翁が宿泊所とした家は、屋根が瓦に葺き替えられているが家の中には西郷が書いた掛け軸や愛用の火鉢、きゅうす、石風呂、顔を洗った手水鉢、さらに西郷の猟銃が暴発したときの弾の跡が残っている。現地案内板には「南州翁の根占来遊は5回である。そしていいつもこの家に宿泊された。今はガラス窓、瓦葺きになっているが、これは後年改造されたもので、本屋は南州翁宿泊当時そのままである。その他、石風呂・手水鉢・宿所の碑などが展示されている(平成3年11月5日町指定文化財)」とある。
 西郷南州翁宿所跡  
西郷南州翁宿所跡
 西郷南州翁宿所主屋(おもや)  
西郷南州翁宿所主屋(おもや)
 南州翁専用手水鉢  
南州翁専用手水鉢(ちょうずばち)
南州翁が使ったとされる石槽   
南州翁が使ったとされる石槽
  南洲翁宿泊の碑




天井に残る弾痕
 
 南洲翁宿泊の碑
明治七年以降西郷南州翁好んで大隅の國肝属郡小根占地方に遊ひ候。川北なる平瀬十助の家に宿す。其の家今尚翁が浴せし石槽を存せり・・・

 天井に残る弾痕(猟銃が暴発したときの弾の跡)

 町指定文化財 史跡 南州翁宿泊所跡 案内板
 大隅と島津斉彬  大隅路に残る島津斉彬の足跡
 島津斉彬の地方巡検 
明治日本の産業革命構成遺産に功績を残した第11代薩摩藩主島津斉彬(1809年~1858年)は、藩主としての期間はわずか7年だったがその志は多くの人々によって受け継がれ、明治維新で活躍した西郷隆盛ら有能な藩士を輩出している。その斉彬は、藩内情勢、各郷の海岸や砲台、郷土の操練状況を視察するため、各郷を巡検し大隅路にもその足跡を残している。台場公園には薩英戦争砲台跡と地方巡検の折、斉彬が使用したという手水鉢が残る。
薩英戦争
砲台跡 
 薩英戦争砲台跡
 江戸時代末期に藩内の沿岸に設置された砲台は台場とよばれ、1844(弘化元)の山川・枕崎、1847(弘化4)根占、1850(嘉永3)天保山、洲崎、桜島、垂水、翌年頴娃に配置された。1851年に藩主となった島津斉彬は、各地の台場を巡検し、洋式築城術により改造を命じ、さらに1853年以降も築造が続けられ、薩英戦争当時には鹿児島近海に10の台場があったという。南大隅の台場もその一つだが発射する機会はなかった。
 台場公園
「薩英戦争・砲台跡」
 
台場公園「薩英戦争・砲台跡」
台場公園設置の砲台     
 台場公園設置の砲台(レプリカ)。台場の3メートル、幅4メートルのこのみかげ石の石垣は延長60メートルにも達し、中央に砲身を構えた凹部が二つ残っていて原型をはっきりととどめているのはこの台場だけという。
 現地案内看板の説明  現地案内看板から
 文久2年(1862年)8月21日島津久光の一行は薩摩(鹿児島)に帰る途中、武蔵生麦村(現横浜市)で行列を乱した英国人リチャードソンを斬殺し二人に傷を負わせた。このことが原因となって薩英戦争が始まった。文久3年2月薩藩は英艦の錦江湾来攻を察知して沿岸の防備を固めたがこの時本町の根占港津柱神社裏と現在地そして上ノ山の三カ所に五番陣(小根占、大根占、佐多、大姶良、鹿屋)の郷士が主になって台場を構築した。今、この砲台の跡を土地の人々は「台場跡」とよんでいるが台場の3メートル、幅4メートルのこのみかげ石の石垣は延長60メートルにも達し、中央に砲身を構えた凹部が二つ残っている。近くにはエンショウ倉(煙硝庫)もあった。薩英戦争の際、発射する機会はなかったが錦江湾沿岸に数十の台場が構築されたなかで当時の台場として原型をはっきりととどめているのはこの台場だけという貴重な史跡 である。 
史跡台場跡看板   

台場巡検の折斉彬公が使用したという手水鉢     斉彬公使用の手水鉢
 島津二十八代斉彬(なりあきら)は嘉永六年十一月十二日(1852)大隅、日向の各郷の海岸、各所砲台総連状況巡視のため台場を巡検しここで休息した。そのおり、この石の 手水鉢(ちゅずばち)が使用されたという。 
 斉彬公が巡検の折、使用したという手水鉢  
 斉彬公の大隅での足跡を示す案内板
 
 案内板と手水鉢    
台場公園南端にある島津斉彬公が使用したという手水鉢と案内板
 台場公園からの眺望  
美しい海岸から眺望する対岸の開聞岳。斉彬公もここで休息して今も変わらないこの美しい風景を目にされたことだろう。
斉彬公も来遊した花瀬
お茶亭跡
 
 田代花瀬お茶亭跡・花瀬風景
  花瀬は、三国名勝図会にも記されるほどの景勝地で、近郊近村はもちろん相当遠い地からも、いわゆる「花瀬出張い」で賑わった地である。また、19代光久公、24代重年公、28代斉彬公が、来遊し、お供の人達と花瀬の景観を楽しみながらの宴席をもうけていた。その頃、今の橋のたもとの付近にお茶亭があり、その釜跡が「お茶亭跡」として保存されている。現存する14個の釜で湯をわかし・煮炊きに利用したと思われ、当時の茶席の盛大さがうかがえる。現地では今も4月の桜開花の時期に盛大に花瀬祭が催しされる。
   お茶亭跡鹿児島県錦江町(旧田代町)
  お茶亭釜跡  
お茶亭跡
 お茶亭釜跡
 千畳敷きの石畳と花瀬風景

千畳敷きの石畳を流れる清流と桜の風景。後方朱色の橋は花瀬大橋
現代の花瀬祭り     
 花瀬公園祭り 。江戸時代には島津斉彬公も訪れ、景を愛し、曲水の宴を楽しんだであろう花瀬。現代も毎月4月第一日曜日には盛大に花瀬祭りが開催され、たくさんの人出で賑わう.

   
島津斉彬も遊びにきた花瀬のお茶亭跡
 幕末の頃の花瀬の風景
 「三国名勝図会」
 
幕末の頃の花瀬の風景 薩摩藩編集の「三国名勝図会」より

 備考  ※当サイトは、ふるさと探訪のメモとして作成しており、読んでいただいた方々の再探訪の一助になれば幸いです。記述文内容は、時代考証にもとづく正確な内容を保証するものではありません。これからさらに情報を精査・収集して更新してまいります。ご意見、感想などお待ちしています。
ふるさと探訪記掲載の「台場公園」「花瀬自然公園」等の関連サイトもご覧ください。    サイトUP日2017/2/10 


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