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 富士山自然探訪~富士山の高山植物と北口冨士浅間神社の巨木~
パイオニア植物  五合目樹林帯植物  北口浅間神社の巨木  角行の立行石

   
  富士山自然探訪
 はじめに


登山の楽しみのひとつは、草花や樹木との出会いだ。そこには必ず新しい発見と感動がある。今回の富士登山は、六合目以上高山帯の過酷な環境でひっそりと花を咲かせるイワツメグサやフジハタザオなどの草花と出会い、植物の生命力のたくましさに感動した。森林限界とされる五合目から六合目へ向かう登山道ではダケカンバナナカマドなどの落葉広葉樹やカラマツ等と出会い、富士山の豊かな植生と森林限界の自然の厳しさを体感した。北口本宮冨士浅間神社では樹齢1000年とされる杉や檜の巨木と出会い元気をもらった。
  高山帯森林限界のパイオニア植物たち 
  高山帯森林限界の過酷な荒地へと進出し、たくましく育つ富士山のパイオニア植物(先駆植物)たち   
 高山帯森林限界のパイオニア植物 富士山の六合目以上の高山帯は、気温も低く、富士山特有の絶えず移動する不安定な火山砂礫に覆われて植物にとって過酷な生育環境だ。そんな悪環境の中でフジハタザオ、イワツメグサ、オンタデ、イタドリなど富士山高山域の植生をリードするパイオニア植物たちがたくましく育ち、新しい植生を開拓していた。
火口荒原のオンタデやイタドリ等のパイオニア植物     
   高山帯の火山礫でおおわれた「火山荒原」に進出したオンタデやイタドリ等のパイオニア植物
岩陰や防石柵の隙間にひっそりと咲くフジハタザオ    
  比較的安定した斜面や岩陰などにはフジハタザオ、イワツメクサ等の高山植物が岩かげで小さな花を咲かせていた。 
イワツメグサ     
 イワツメグサの特性  登山道防石柵の隙間に根を張り、花を咲かせたイワツメグサ   (2013/7/8  六合目)

イワツメクサ(岩爪草)は、ナデシコ科ハコベ属の多年草で高さ5~20cm。葉は細長く3cmほど。白い花の5弁花で、真ん中に深い切れ込みが入っているので花弁が10枚あるように見える。花期は7~9月で本州中部の高山の礫地に多く分布する高山植物。和名は、岩の間から生えるツメクサという意味から付けられた。

   標高差に見られる富士山植生の変化
標高差に見られる植生の変化   山小屋の高さを目印にして斜面のラインを下から上へたどると標高差に見られる植生の変化に気付かされる。当然のことながら低地ほど植生の回復と定着が見られ、標高を増すごとに植生もまばらになってきた。標高3000mでも谷間や岩陰を中心に比較的環境が整った場所では草本類の定着が目についたが3100mを越すと植生の見られない火山荒原になっていた。
山小屋と斜面をはい上がる植生







 
 
↑吉田ルート七合目(2700m)から頂上まで18件もの山小屋が点在し、山小屋の斜面をはい上がるように斜面下部を中心に 八合目(3000m)付近まで植生の定着が見られた。
7合目植生





 
 
七合目「花小屋」(標高約2700m)近く登山道植生風景

七合目「鳥居荘」(標高約2900m)手前の登山道植生風景
  七合目山小屋近くの低い場所では草本種が発達し植生の定着が見られた
 8合目植生





 
八合目近く「東洋館」(標高約3000m)手前の登山道植生風景

八合目「太子館」(標高約3100m) 手前の登山道植生風景
  ↑八合目3000m近くの山小屋までの比較的環境の整った場所では草本を中心とした緑の植生群が確認できたがそれ以上の3100mあたりまで 先駆草本植物がまばらに見られる程度だった。
3100m以上の火山荒原




 
 
八合目蓬莱館(標高約3150m) 手前の登山道植生風景

 八合目白雲荘(標高約3200m) 手前の登山道植生風景
  ↑ 標高3100mを超す登山道一帯では植生の見られない火山荒原になっていた。
  富士山五合目 森林限界境界の植物たち
    亜高山帯と高山帯境界の五合目登山道を歩く。
 
 冨士スバルライン五合目を起点に山頂をめざしてスタート。六合目へ向かう登山道を歩くと、ダケカンバナナカマドなどの落葉広葉樹やカラマツが富士山独特の植生と景観を形づくっていた。六合目が近くなると木々がまばらで背丈も低くなり、高い木は姿を消し、一面、砂利や岩の斜面に変わってきて、その上には樹林が見られなくなる森林限界の風景が目の前にあった。 
 亜高山帯と高山帯の五合目登山道









 
冨士スバルライン五合から六合目へ向かう登山道
登山道で出合った樹木たち 

ナナカマド

ハクサンシャクナゲ

 
ナナカマド

 ハクサンシャクナゲ
 ミヤマハンノキ

ダケカンバ

カラマツ



 
ミヤマハンノキ 
 
ダケカンバとカラマツ
  冨士スバル五合目から六合目へ向かう亜高山帯樹林の登山道はナナカマドやハクサンシャクナゲ、ミヤマハンノキ、 ダケカンバ、カラマツ等の草木や樹木が富士山独特の植生と景観を形づくっていた。
 森林限界の先端を形成するカラマツ






   
   森林限界の先端に形成されるカラマツ。六合目近く、森林限界最先端付近のカラマツは幹や枝を水平に伸ばし、樹高を低くして強風を耐えしのいでいた(右)。
  追記:富士山の森林限界
  富士山の森林限界(森林の発達できる限界)は、約1000年前の噴火の影響を受けた北面では2200~2400m程度、約300年前の宝永噴火の影響を受けた南東面では1500m以下とされる。森林限界を超える高山帯は過酷な荒れ地で、植物にとっては過酷な生育環境だ。これは、富士山が一万年以降に高さを増した火山である上に独立峰で高山植物のタネが侵入しにくいためとされる。富士山の森林限界の特色は、雪崩(なだれ)で谷がけずられることや森林の発達のしかた自体の性質によってぎざぎざに入り組んだ形になっている。なお森林には雪がかぶりにくいため、冠雪した雪のラインは森林限界を知るてがかりになる。ちなみに同じ中部地方にある南アルプスでは、標高2800mまで森林があり、これより上でもハイマツの低木林や草花を見ることができるのとは大きなちがいだ。
   
富士山の森林限界図(Newton2013・8月号より)
  富士山自然探訪~北口本宮冨士浅間神社境内の巨木巡り~
 冨士登山安全祈願と巨木巡礼
 北口本宮冨士浅間神社で登山の安全祈願と探訪目的の一つ境内の巨木巡礼。本来ならば吉田口登山道の起点となるここ北口本宮冨士浅間神社から五合目までの登山ルートを歩きたいところだが今回は車で冨士スバルライン五合目まで車で移動。一合目からの登山は機を見てチャレンジしたい。 
 北口本宮冨士浅間神社鳥居と巨木杉の参道






 
 
  吉田口登山道入り口の北口本宮冨士浅間神社富士山世界遺産構成資産(平成25年6月登録) 鳥居と参道。拝殿へ続く参道は、苔むした燈籠と樹齢300年以上の杉と桧の木々が立ち並び、霊感漂う荘厳な雰囲気だった。
    北口本宮冨士浅間神社境内の大スギと檜 
北口本宮冨士浅間神社とは 

北口本宮冨士浅間神社は江戸の冨士講村上派を率いる村上光清が莫大な資金をかけ江戸時代の享保18年(1733)、境内社殿の大造営を行った。北口本宮冨士浅間神社境内の大杉は、「冨士太郎杉」と呼ばれ、広く市民に親しまれている。樹齢千年近くと言い伝えられ、根張りが著しく発達し、漏斗を伏せたような樹形は荘厳さがあり、本殿を見守るかのようである。山梨県を代表するスギの巨樹として、山梨県の天然記念物の第一号に指定された。 
北口本宮浅間神社境内の冨士太郎杉 










 
北口本宮冨士浅間神社拝殿と冨士太郎杉 
「冨士太郎杉」 (根回り:21,0m、幹根境の周囲:12,7m、目通り周囲:8,2m、樹高:30,0m 
     北口本宮冨士浅間神社のヒノキ 
  北口本宮冨士浅間神社のヒノキ木は、二本のヒノキが根元で一本になり、また地上約12mで再び合着していることから「冨士夫婦檜」と呼ばれ、広く市民に親しまれている。根張りが著しく発達し、枝は上部で四方によく伸びて見事な樹形である。冨士吉田市指定天然記念物 
冨士夫婦檜 














 
「冨士夫婦檜」(露出根張り:17,0m  幹根境の周囲:8,7m  目通り幹囲:7,65m  樹高:33,0m)

  北口本宮冨士浅間神社の「夫婦檜」は日光社寺にも「夫婦杉」、「親子杉」、「三本杉」と称される巨木があり、興味深かった。苔むした石灯籠と杉や檜の巨木が立ち並ぶ参道を歩くと霊感漂う荘厳な雰囲気の高野山奥の院の参道が思い浮かんだ。→ 日光社寺の巨木巡礼   高野山奥の院巨木巡礼  
   角行の立行石
角行の立行石   境内一角に「巨木」ならぬ「巨石」を発見。これが冨士講にかかわりのある「角行の立行石」だ。














 
冨士講にかかわりのある「角行の立行石」 ―富士吉田市指定文化財―
 角行の立行石とは








角行「天文10年1月15日(1541年2月10日)~正保3年6月3日(1646年7月15日)」は、江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物とされる。 案内板によると
この立行石は、慶長15年(1610)の冬、富士講の開祖角行東覚(当時69歳)が吉田の地を訪れ、富士山霊を遥拝し、酷寒の中を裸身にて、石上に爪立ちして30日の荒行をした。全身より血を噴き、里人の勧めで行を止めたと伝えられている。角行は本名を藤原武邦といい、天文10年(1541)正月15日、九州長崎で生まれた。戦国の世にあって天下泰平、国土安穏、衆生済度の大願を成就すべく難行苦行の道に入った。永禄2年、18歳で故郷を出立ち岩手県盤井郡の「脱骨の窟」でで37日の行をなし、のち神告により富士の 「人骨」に入り、四寸五分角(約14センチ四方)の材木に一千日爪立ちするという捨身の荒行をおえ、解脱し角行と称した。元和6年(1620)角行79歳の時、江戸に 「つきたおし」 という奇病がはやり、三日で千人死んだともいわれたが、「風先侎」 により病を癒し庶民を救い、その名を高めた。正保3年(1646)6月3日、106歳にて大往生したが、生涯における修行で主なものは、不眠の大業一万八千八百日、富士登頂百二十八回に及んだといわれ、富士講の開祖となった。―富士吉田市教育委員会―昭和60年11月1日


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