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1はじめに,
2、ラーフルの使用実態
3、インターネット上のラーフル
4、先学のラーフルへの関心
5、業界におけるラーフル
6、ラーフルと登録商標
7、ラーフルの源流、
8、ラーフルの語源探索
8、蘭学と共に
10、黒板三点セット
11、蘭学から英学へ
12、方言周圏論としての「ラーフル」
13、おわりに
このページは特別調査のため、鹿児島高専の上村忠昌氏から寄稿していただいた『「ラーフル」考』のほぼ全文をHTML化して紹介しています。 
 鹿児島県・宮崎県・愛媛県などを主として、「ラーフル」という語が「黒板拭き」という意味で使われている。業界のカタログ用語としてはかなり用いられているが、世間的には方言の状況にあり、全国的には通用しない。明治時代の初期には、大阪・愛知・和歌山あたりから西日本に広く使われていたものが、現在、西の周圏地域にだけ色濃く残ったものと思われる。語源は、幕末・明治初期の蘭学の中で用いられたと推測されるオランダ語の”rafel”と考えられる。”rafel”は、「こすること、撒糸(ホツシ)ニシタル、ほつれ糸、リント布」という意味で、明治初期に我が国に黒板が導入された時期的状況からも、最も蓋然性が高い。

    Key words:ラーフル 黒板拭き 鹿児島方言 蘭学 オランダ語”rafel”
1、はじめに
 鹿児島県内では、奄美諸島も含めて、広く「ラーフル」という語が使われている。ところが、この語は県外から来た人にはほとんど通じない。「ラーフル」とは鹿児島ではもちろん、黒板にチョークで書いた字を消すあの長四角の用具の呼称であるが、他県出身の人は「黒板拭き」とか「黒板消し」とか言っている。「ラーフル」という語は、国語辞典にも方言辞典にも出ていない。
外来語らしい匂いがするが、外来語辞典にも見当らない。
 鹿児島県内では、昭和40年代から国語教育者や方言研究家に関心を持たれ、語源探索や方言的な状況に至った経緯の考察がなされてきたが、はっきりしないままになっていた。そこで、私はアンケートで使用実態を調べたり、語源探索をしたりした結果を一般向けにまとめて、平成元年に郷土の新聞に掲載したことがある。 その後も考察を続け、新しくわかったことも多い。また、最近はコンピュータの普及に伴ってインターネット上でも「ラーフル」についての話題が飛び交っている。鹿児島県以外でもかなり使われている所があることがわかった。いろいろな情報を活用して再考してみた。
2.工業高等専門学校での調査から見た 「ラーフル」の使用実態
まず、この語の鹿児島県内における使用実態はどうなっているか、勤務先の国立鹿児島工業高等専門学校で教職員・学生のみなさんに調査をしてみた。  
あなたが小学校5年生になったのは、昭和何年でしたか.。
あなたの出た小・中学校があった場所はどこでしたか。
 その小・中学校では、黒板にチョークで書いた字を消す長四角の用具をなんと言っていましたか。
 あなたは、この用具を現在はなんと言っていますか。
  それらの他に、この用具の名前を聞いたことはありませんか。
 鹿児島県では、この用具を「ラーフル」と呼んでいるのですが、この「ラーフル」という語について
 何か知っていませんか。
 県内出身者の回答数744人の91%が「ラーフル」という語を使っている。校内のデータではあるが、使用者の出身地は鹿児島県下の全市郡にわたっている。年代的には昭和の初めからは使われていたことになっている。戦時中には敵性語とみなされて、一時は使われなかった所もある。なお、校外の年配の人に当ってみると、姶良郡の小学校では大正の中頃からはすでに使われていた。私自身、鹿児島県人で昭和20年の終戦の時は小学校2年生であったが、その後の中学生・高校生の時も当たり前のように「ラーフル」と言っていたし、現在も教壊に立って普段に使っている。「ラーフル」という語は、鹿児島県内では、方言とは気付かないで使われている語の代表と言つていい。
 次に県外の状況は、鹿児島高専における県外出身の教職員・学生の53人のうち、宮崎県の学生4人が「ラーフル」という語を使っている。他の人は鹿児島県に来てはじめて聞いたというのが実情である。
 さらに、全国の国公立高専57校の国語科担当教官にも各校1名ずつ、同様のアンケートで通信調査をしてみた。結果は教官自身は全員が「ラーフル」という語は初耳だということであったが、学生の情報から、宮崎以外にも四つの県で使われている形跡がうかがえた。調べてみると、兵庫県神戸市兵庫区で昭和40年頃から、山口県の下関市長府・豊浦郡・長門市・萩市・阿武郡で戦前から、愛媛県では東の一部を除いてほぼ全県的に昭和の初めから、佐賀県の伊万里・有田・佐賀市で昭和の初めからは使われていたことがわかった。これらの地域でも、大体は年長者による使用が多いのであるが、実際の発生がどの年代までさかのぼるかはわからなかった。
 宮崎県の使用例は、鹿児島県出身の教員や旧島津領の鹿児島語の影響も考えられるが、他の県の例は、別に鹿児島県出身の教員が赴任して行って広めたという事情ではないであろう。「ラーフル」という語は、このように鹿児島県以外でも、いくつかの特定の地域で使われてきて今日に至っていたわけである。
3.インターネット上の「ラーフル」
パソコンでインターネットに接続して、「ラーフル」で検索してみたところ、71件もリストアップされた。中には、インドの映画監督、俳優、音楽家、仏教学者の名前が4件まじっていたが他は「黒板消し」関係であった。文章中に「ラーフル」という語が何気なく使われていた場合もあるが、大部分は「ラーフル」という語が県外では通じずに驚いたという方言的な使用状況に関する話題と、いくつかの「ふるさと方言集」に掲載されているものであった。
「ラーフルの謎を追え!」という見出しで、情報提供を呼びかけたものもある。インターネットによる使用地域としては、その県内での広がりの分布密度までは分からないが、鹿児島・宮崎・大分・愛媛・岡山・鳥取・兵庫の各県で“使っている”様子が窺える。
或るテレビ局の「探偵!ナイトスクープ」という番組では、”鹿児島の「ラーフル」”を取り上げて放映し、語源は素材の名前からであろうということになったらしい。
 大阪外国語大学のホームページには開講科目の概要が示されていて、「日本語学概論(小矢野教授)」の中に「言葉から名付けの由来を垣間見る」という章があり、そこで「ラーフル」も取り上げられていることがわかる。
 文房具メーカーの株式会社内田洋行と日本理化学工業株式会社は、「黒板消し」の商品を「ラーフル」という呼称で、インターネットのホームページのカタログに掲載している。特に後者は、ホワイトボード用を「ダストレスクリーナー」、黒板用を「ダストレスラーフル」と呼び分け、わざわざ「ラーフルとは、オランダ語の「RAFEL」で、こすること、磨くことの意からきています」と付けている。
 しかし、オランダ語説はまだ浸透せず、現在でもインターネット上では、「ラーフル」という語は謎めいた方言という印象で飛び交い続けている。あるクイズ番組で、所ジョージは「ラーメンのフルコースの略」という迷答を出したという話題もある。
 ちなみに、先のアクセスから5か月後の、この論文の最終仕上げ直前に、再度、インターネットで検索してみたところ、「ラーフル」でのリストアップ総数は8件減って63件になっていた。中身を見てみると、33件が消滅して、代わりに25件が新生している。「ラーフル」の話題が飛び交い続けていることがわかる。
4.先学の 「ラーフル」への関心
後に外来語辞典を編集した楳垣實氏は、早い時期に「ラーフル」への関心を示している。氏の編輯で発刊されていた研究誌『外来語研究』昭和11年(1936)のものに次のようにある。
 私の学校の消耗品購入簿に”ラーフル”と云ふ項目の欄があって、いつもそれに印を押す毎に、この言葉の語源を知りたいと思って、調べてはみるが、どうも判らない。黒板拭の事なのである。書記の人に聞いてみると、明治時代から和歌山県では普通に使ふ言葉だと言ふ。私には全く珍らしい言葉で、京都では明治時代(私の小学校時代)にも聞いた事はなかった。或は和歌山県だけで使ふのかも知れない。英語の辞書も、蘭語の辞書も少し調べてみたが、どうも出て来ないし、それらしい語も見当たらない。御存知の方の御教示を願ふ次第である。楳垣氏が昭和41年(1966)に出した『外来語辞典』には、「ラーフル」は出ていないから、語源探索は実らなかったのであろう。
 昭和47年(1972)、当時鹿児島大学教授であった上村孝二氏は、次のように呼びかけている。
 ラーフル(黒板ふきのこと)という語が薩隅、奄美などでは行なわれており、小学校時代学校用語として学んだ経験のもつ人が多い。しかしこの語は外来語らしい匂いがするが、私の調査では目下他県人にこの語を知る者がない。外来語辞典にも見当たる語ではない。外来語とすれば長崎経由の語と考えるのが自然であるが、長崎県の人もこの語を知らない。家の長男和也は言う、フランス語のrafle(=sweep off)から来たのではないかと。しかしこれは動詞だし少し意味も違う。
 ところで鹿児島大学図書館の黒板ふきの実物を検していると、その古ぼけた一つに、取り手のついた側にBEST LARFULとローマ字が書かれているのを発見。またNAGOYA G.S.Kというローマ字もみえる。そこでこの黒板ふきの購入先と思われる市内の商店数軒に問い合せたが、名古屋のメーカと取引している店も見当らず、ついに行き詰ってしまった。名古屋の黒板ふきの工場に鹿児島出身者がいて、かつて学んだラーフルという語をハイカラな外国語と思い込み、ローマ字でもって、刻んだのだろうか。興味ある語原探索である。誰かいいチエを授けてもらいたい。
上村孝二氏のその後の論文に、「ラーフル」の語源についてのものはない。
なお、私が調べたところでは、上記のNAGOYAG・S・Kは、名古屋市にある銀鳥産業株式会社でBEST LARFULの名称は、業界用語の「ラーフル」に英語風の「LARFUL」を作語して当て、英語の「BEST」を付けて商標にしたことがわかった。
5.業界における「ラーフル」
 物品名称は、その品物と一緒に普及するはずである。品物は供給と需要の両側面を持っている
まず、この「黒板拭き」の品物を供給する業界の側について探ってみる。
 文房具・事務用品の業界においては、商品名として「ラーフル」がかなり使われている。「羽衣・ラーフル」「ダストレスラーフル」「オーダー・ラーフル」「ハイビスカスラーフル」というような商標も見られるが、大方は商品の普通名称として用いられている。カタログに「ラーフル」という語を用いている製造会社や文具卸商は15社が目に付いた。アケボノ、ITO、ウチダ、馬印、オーダー、大阪クラウン、学研、キッタカ、銀鳥産業、クローバーチェーン、日本理化学工業、羽衣文具、マンモス、ライカ、レクノスの各社である。ITOは黒板用・白板用とも「ラーフル」とし、ウチダとキッタカは白板用を「ラーフル」としているが、他の12社は黒板用の方を「ラーフル」としている。馬印、学研は「ラーフル」と「黒板拭き」を併用していて、レクノスは品目名を「黒板拭き」とした上で、黒板用を「ラーフル」、白板用を「イレーザー」と分けている。ITOは白板シートのウォータークリアペン用を「イレーザー」としている。
 他にイトーキ、クラウン、プラス、マイゾックス、ライオンが黒板用・白板用ともに「イレーザー」としているが、イトーキとクラウンは「黒板拭き」も併用している。
 キハラ、コクヨは「黒板拭き」としている。コクヨは、黒板用を「黒板ふき」とし、白板用を「ホワイトボード用イレーザー」としているが、両方とも製品略号を「RA一番号」としていて、なんとなく「ラーフル」の影がうかがえる。
 アクスルだけがサンケーキコムの製品を「黒板消し」という品目でカタログに載せている。業界のカグログでは、電動掃除機名に含まれているのまで入れると「黒板拭き」が16社に見られ「黒板消し」という言い方より圧倒的に多い。
 ここで、業界以外での、「黒板拭き」と「黒板消し」という語の使用状況について述べておく。
前述のインターネット上で、「ラーフル」の話題に付随して出てくるのは、ほとんどが「黒板消し」という語の方であった。上記の国公立高専国語科教官の調査では、両用も振り分けて計上してみると、「黒板消し」35に対して「黒板拭き」19であった。世間で実際に使われているのは「黒板消し」の方が優勢のようである。
 愛知県では、他の呼称として「黒板拭い」やそれを略した「ぬぐい」も、古くから今に至るまで使われているということである。また、各地で散発的に、「ラール」「塗板(とばん・ぬりばん)拭き」「チョーク消し」「ワイパー」なども使われている。
 ちなみに、手元の大中小の国語辞典(14種類)を引いてみると、「黒板拭き」を見出し語に立てて説明しているものは『日本国語大辞典』(小学館、20巻本)だけである。この辞典は「黒板消し」には全く触れていない。「黒板消し」については、『国語大辞典』(小学館、1巻本)だけが「黒板」を見出し語に立てて説明した上で、「ーふき【黒板拭】」も中見出しにして説明して、その終わりで「黒板消しとも」と付け足している。「黒板消し」は他の辞典では全く触れられていない。
「黒板拭き」も前出の2辞典以外では、『広辞苑』(岩波書店)と『日本語大辞典』(講談社)が、「黒板」を見出し語として説明した中で、その用例として「−−拭(ふき)」とだけ示している。
他の辞典では「黒板拭き」も全く触れられていない。
 ところで、業界のカタログでは15社に「ラーフル」という語が見られたわけだが、この商品名が実際にはどの程度通用しているのであろうか。問い合わせてみると、それらの社内においても日常生活では、例えば”そこの「黒板拭き」を持ってきてください”と言うのが実情で、「ラーフル」という語はほとんど使わないし、品物そのものの呼び名としても、社員自身が知らないに等しいということであった。あくまでカタログのための業界用語という感じである。
6.「ラーフル」は登録商標ではない
 「ラーフル」という呼称は、業界ではいつ頃から使われてきたのであろうか。株式会社馬印は明治29(1896)年9月創業で、学校用チョークの製造・販売を開始しているが、いつから「黒板拭き」も扱うようになったかという記録は無いものの、当然のことのように「ラーフル」という呼称は業界で使ってきたということである。
 チョークの大手メーカーである日本理化学工業株式会社は、昭和10(1935)年ごろに粉の飛散しないチョークで特許を取り、「ダストレスチョーク」という名称で商標登録をしているが、その後昭和30年ごろに黒板拭きも製造するようになった時には、改めて商標出願をすることはせずに、「ダストレスラーフル」という名称を使っている。この会社としては、「ダストレス」だけが独自の登録商標なのである。
 我が国の商標登録制度は、明治17(1884)年の商標条例からであるが、今日までに「ラーフル」という名称が単独で登録商標の扱いを受けたことがないところをみると、業界では、かなり古くから、「ラーフル」という語が「チョーク」と同様に、普通名称として意識されていたことがわかる。各メーカ}に問い合わせてみても、黒板やチョークにはJIS規格があり、資料も残っているが、黒板拭きは全くの付属品で、過去の資料も全然ないということであったo「ラーフル」という呼称も商習慣であるというわけである。
 以前、株式会社内田洋行の情報提供によって、「ラーフル」に関する商標出願が拒絶査定になった例があることを知った。その時は、商標登録や拒絶査定の仕組みがよくわからなかったが、このたび、インターネットで特許庁のホームページにアクセスして、商標の登録のことを調べてみた。「ラーフル」というような個別の商標の詳細はつかめなかったが、商標登録の仕組みが説明されていた。概略を図示しておこう。
 
表略

 この仕組みを「ラーフル」の例に当てはめてみると、図の二重線の経路になっている。昭和57(1982)年1月25日、岐阜県の有限会社G・K・社が「ラフル」という商標の登録を“出願”した。
特許庁は、出願書類の様式等に関し、所定の手続き上または形式上の要件を備えているか否かの‘‘方式審査’’を行い、重大な欠陥がなかったので受理した。次に、形式上の要件のほかに、種々の実体的要件を満たしているか否かの‘‘実体審査”が行われ、パスして、審査官により“出願公告をすべき旨の決定”がなされた。「ラフル」は、昭和59(1984)年1月7日、「商標公報」に掲載して“出願公告’’が行われた。出願公告があったときは、だれでも特許庁長官に対してその日から2カ月以内に‘‘登録異議の申し立て”をすることができる。そこで、この時は日本白墨工業組合(本部:名古屋市)が、昭和59(1984)年3月2日付で、すでに「ラーフル」という語が一般的な名称として通用しているので、これと類似した「ラフル」を一会社の登録商標にしてもらっては困るといって“異議申立て”をした。これには、昭和48(1973)年頃からの製品価格表やカタログ類の資料(「ラーフル」という語の記載例)も添えて異議を申し立てている。特許庁は審査した結果、「ラーフル」を普通名称として認定し、“異議理由あり”として、「ラフル」は「ラーフル」の略称にすぎないということで、G・K.社からの登録商標としての出願を昭和61(1986)年11月25日付で“拒絶査定’’にしたという経緯になっている。
 はからずも結果的に、「ラーフル」という語は、この日付をもって、現代日本語の一般名詞として認知されたことにもなるわけである。
7.「ラーフル」の源流
「ラーフル」という日本語の使用は、どこまで遡れるのだろうか。品物の供給側である業界における「ラーフル」という語の状況は、上述のようにカタログ用語としてはかなり普及していると言っていいが、いつ頃から使用されてきたのかは、はっきりしない。
 需要側である教育界での「ラーフル」は、現在では、初めに見たとおり特定の地域以外にはほとんど知られていない。しかし、筆者の探索では、明治14(1881)年の大阪府北区若松小学校ですでにこの語が使われていたことがわかった。おそらく、これが文献上で最も古い例であろう。
 大森久治著『明治の小学校』の学校用品年間支出内訳表に記載されたものである。「白墨・ラーフル費、3円98銭」とある。大森氏は「rubberを日本風に読んだもので、黒板〔石盤〕拭きのこと。この金額は4月に1円10銭、5月に78銭、9月に2円10銭を支出している。」という注を付けている。
 そこで、私は大森氏に、「ラーフル」を「rubberを日本風に読んだもの」とされた根拠をたずねてみた。オランダ語に由来するのではなかろうかという拙論を添えて、書簡を送ったところ、次のような御教示を得た。
  (前略)ラーフルの語源については、先生のお考えが正しいのではないでしょうか。私が注記したのは、若松小学校明治14年収支一覧の、白墨・ラーフル費について、ラーフルは黒板消しではないかと予想し、英語事典を引いた時、rubberの意味に「消す」ということがあり、これを注に引いたので、全く私の考えでありました。後、明治の小学校出版後、愛媛県新居浜高校出身の中学校事務員(昭和27年出生)が黒板消しのことを「ラーフル」と呼んでいたので、本人にいろいろ聴くと、新居浜では普通に呼んでいると云うので、ラーフルを黒板消しと解釈したことが間違いでなかったと思いました。ただ、同じ新居浜高校の同級生と云う女性に聞くと、ラーフルというと通じなかったので、その女性が忘れてしまった(尋ねたのは本年正月)のか、どうかは不明です。ラーフルの語は、明治14年の若松小学校収支表で見ただけです。この年度以外の収支表は未発見。若松小学校の隣の衣笠小学校、明治15年の収支表には白墨・ラーフル費の項目はなかった。明治5年から出ている大阪新聞に新しい文具の記事がありますが、ラーフルなるものは出ていなかった。大阪では、今、ラーフルの語が使われていること全く聞いていません。(後略)
 いずれにしても、学校用品として「白墨・ラーフル」という白墨と抱き合わせの費目で使われているところをみると、この「ラーフル」とは「黒板の白墨を消す物」という意味の語で、いま問題にしている「ラーフル」の源流と考えて間違いあるまい。そして、明治5年からの「新しい文具」の記事にも出てこないくらいに、普通の呼称として使われていたのであろう。
 大森氏の『明治の小学校』から、明治初期の大阪の小学校で使われていた学校用品のカタカナ語を拾ってみると、フラフ、タアフル、ランプなどがある。これらの語は、いずれもオランダ語のvlag(校旗)、tafel(机)、1amp(ランプ=洋燈)からの用語だと思われる。
 なお、同書には、明治5年の学制発足までの教育の状況も詳しく書かれている。慶応3年10月、徳川慶喜が大政を奉還し、王政復古の世となって、大久保利通が、民心の一新をはかるため、大阪への遷都を建白した。慶応4年5月2日、大阪府が誕生し、9月8自には年号も明治と改められた。明治と改元されても、世の中は落ち着かず、東北・北海道では相変わらず戦闘が続いた。
新政府は、内戦のおそれが少ない大阪に文化施設を設けようと、まず造幣寮を、つづいて舎密局・病院・医学校を建てた。明治天皇も明治2年3月23日から40日間は大阪に滞在されたが、3月28日、都は東京と改名した江戸に移すことが発表され、大阪遷都の夢は破れた。
 明治2年5月に開校した舎密局(京都大学の前身)の教頭には、オランダ人ハラタマをおいたということである。この舎密局や医学校、明治2年9月に造幣寮の中に開校した洋学校は、オランダ人・イギリス人・フランス人・ドイツ人などの外人教師が中心となった学校で、西洋の新文明を取り入れようと志す人々のメッカであった。
 幕末から明治初期にかけては、関西では蘭学の名残が強く、まだオランダ人がかなり活躍していたのではなかろうか。このように見てくると、「ラーフル」は外来語で、オランダ語系統ではないかと考えられる。
8.「ラーフル」の語源探索
私は昭和60(1985)年10月にオランダの高校を視察する機会があったが、「黒板拭き」としては現在の日本のものと類似の品物を使っていて、‘‘spons”と呼んでいた。「海錦・スポンジ」という意味の語である。
 なお、欧米の学校では、「黒板拭き」として雑巾ふうのぼろぎれを使うことも多いようである。万物名称を図示した有名なドウーデンの図解辞典も、教室風景で「黒板拭き」はスポンジ系と雑巾系の両方を図示している。原本のドイツ語版の図解で示しておこう(次ページ)。黒板備品として、「6 チョーク」の両側にある4・5が「黒板拭き」である。
 このドウーデンの図解辞典は他国語版(図解はいずれもドイツ語版の原板のままを使っている)もあるので、本論で関係のある英語・フランス語の単語も、原本のドイツ語と並べて示しておく。
 オランダ語もぜひ並べたかったのだが、オランダ語版は、かなり以前に廃版になったということで、残念ながら見ることができなかった。東京外国語大学・大阪外国語大学・オランダ総領事館・日蘭学会に調査を依頼したのだが、蔵書が無かった。御教示によると、一般的なオランダ語で言えば、4は‘‘spons’’(スポンジ)で、5は‘‘dweil”(雑巾)であろうということであった。現代のオランダ語で、「黒板拭き」を「ラーフル」と聞こえる語で言うことはないようである。

図略

4はどこでも「スポンジ」系の同一語であるが、5の「雑巾」系の方は少し揺れている点が興味深い。「黒板拭き」の呼称としては、4が正統派で、5は便宜的な物という感じである。とにかく、2系統あることは確かである。なお、現在、英米では‘‘eraser”という言い方が普通のようである。
 ところで、用具の呼称は、製作者(人物・会社)の名前が付く場合もあるが、普通は材質と機能の二面からの名付け方が考えられる。例えば、英語の「黒板拭き」の場合で言うと、”sponge”は「海綿のようなもの」という材質面からの、”eraser”は「消し去るもの」という機能面からの呼称である。
 さて、「ラーフル」が外来語であるとして、今は、原語の発音からあまり訛っていないものとして語源を考えてみる。英語の‘‘rubber,,(こすり消す物)やドイツ語の‘‘1appen(雑巾)の靴ったものというようなことなら、いくらでも広がるからである。
幕末・明治初期の頃に日本の文明開化と縁の深かった蘭・米・英・仏の言葉で、「ラーフル」と発音が近く、材質・機能面で関係のありそうな語を、現代の辞書から拾い出してみよう。
オランダ語:rafel〔こすること、解きほぐすこと、ほつれ糸、もつれさせること、紛糾〕
         rafellng〔亜麻、リント布〕
 英 米 語:raffle〔くず、ごみ、がらくた物、綱・帆などのもつれからまったもの、混乱〕
         ruffle〔乱す、しわを寄せる、波立たせる、羽毛を逆立てる、布にひだをとる〕
 フランス語:rafle〔一斉検挙、一掃すること、残らずかっさらうこと、略奪〕
これらの国の言語は、印欧語族としてもともと祖語を同じくしているので、似通っているが、今はオランダ語と英語に的を絞ってよかろう。
 この蘭英、二か国語に関しては、幕末にこれらの国から文物を取り入れるに当って、日本で辞書作りもなされた。幸い、今でも当時の模様を見ることができる。それぞれ一つずつを取り上げて、幕末・明治初期における「ラーフル」という語について探ってみよう。
 オランダ語は、『和蘭字彙(おらんだじい)』(安政2〜5年1855〜8刊)で見てみる。この辞書は、蘭方医桂川甫周が蘭日辞書『ズーフ・ハルマ』に校訂を加えて出版したものである。
 底本になった『ズーフ・ハルマ』は、長崎のオランダ商館長ヘンドリック・ズーフが通詞たちを指導して、オランダ人フランソワ・ハルマの蘭仏辞典をもとにして作り始めたもので、約20年かかって天保4(1833)年に脱稿、活字出版はせず写本で伝わった。その清書用紙は、島津重豪が親交のあったズーフに贈った大奉書紙であったという。島津重豪は西洋の文物に興味を持ち、蘭癖大名とまで言われた。『ズーフ・ハルマ』は三千枚にも及ぶものであったので、蘭学者も容易には手が出ず、蘭学社会唯一の宝書と崇められていた。大阪の蘭学者緒方洪庵の私塾「適々斎塾(適塾)」でも1部しかなく、「ズーフ部屋」に塾生が常に3人も4人も寄り合って見ていた様を、福沢諭吉は『福翁自伝』にリアルに書いている。 なお、島津重豪や斉彬は桂川甫周とも親交があって、その蘭学知識を活用した。さて、この桂川甫周の『和蘭字彙』には‘‘rafel’’〔ホツシニシタル〕、rafelingガ〔撒糸(ホツシ)〕とあるだけである。「ほつれ」のことである。『和蘭字彙』は約9万語を収めるが、もちろんこれらの古辞書類が、当時の日本で使われていた語彙・語義を網羅しているとは限るまい。しかし、今はこの範囲内で考えるほかはない。
 英語の方は、明治2年(1869)出版の『和訳英辞書』を見てみる。この辞書は、文久2(1862)年に幕府の洋書調所が出した『英和対訳袖珍辞書』の改正増補版(慶応2年1866)に、薩摩学生三人が手を加えて明治2(1869)年1月に上海で出版したもので、俗に『薩摩辞書』と言われている。B5判700ページ、約4万語を収める。
 これには、‘‘raffle”は〔博突(バクエキ)スル。富講(トミコウ)〕という日本語訳しか出ていず、‘‘ruffle’’は〔ヒダヲトル、混雑サスル、乱ル。首飾ノ類、混乱〕とある。また、‘‘boardの訳語は「板、卓子、合セ紙、厚ク広キ紙」とあり「黒板」はなく、‘‘black−board”という単語も出ていない。‘‘chalk”には「(名)白亜、(動)白亜ニテ書ク」とあり、「白墨」という訳語は使っていない。“Sponge”は「海綿、拭ヒ落ス」とだけある。ちなみに、‘‘eraser”はなく、‘‘erasure”に「刮(ケヅ)り去ルコト、消スコト」とあり、‘‘rubber”には「砥石、物ヲ磨スルニ用ユル物、ヤスリ」とあって、いずれにも「黒板拭き」に当る訳語はない。
 以上のように古辞書と現代の辞書を見たところでは、「ラーフル」の語源としては、オランダ語の“rafel’’が有力候補と言えよう。「こすること、撒糸(ホツシ)ニシタル、ほつれ糸、リント布」というニュアンスがあり、機能面と材質面の両方からの命名が考えられる。古辞書の『和蘭かつ字彙』を重視すれば、材質面からということになろうか。実際、当時の蘭学塾でも黒板の白墨を消す用具としては、海綿のほかに、ほつれ糸を束ねたようなモップふうの物、あるいは糸のほつれたぼろ切れを使うことは多かったであろう。それを称して「ラーフル」と呼んだのではなかろうか。正統派の「スポンジ(海綿)」の他に、便宜的な「ぼろ切れ」の呼称として「ラーフル」があったのではないかと思われる。
9.蘭学と共に
 日本で「黒板」「チョーク」「黒板拭き」の三点セットが使われるようになったのはいつからであろうか。
 ヨーロツパでは16世紀頃に使用され始め、19世紀に公教育制度の確立とともに普及したという。チエコの教育思想家コメンスキーの『世界図絵』(1658)は、初等教育の教科書としてヨーロツパ諸国で広く使われたが、その「学校」の章にはすでに「ある事柄がチョークで黒板に書いて示されます」とあって、教室風景が図示されている。英語辞書0.E.D.には、”black board”という語の使用例は、1823年の語例から出ている。
 日本ではどうか。徳川幕府が安政2年(1855)、長崎に海軍伝習所を設けたが、そこの教官であったオランダ人カッテンディーケは、『長崎海軍伝習所の日々』に次のように書いている。
   冬期には、私はただ授業と下士官たちの種々雑多な仕事の監督とに専念した。授業はむろん大切なことではあるが、どちらかと言えば、私は黒板の前に立って教えるということは余り興味を覚えず、むしろ海軍に関する複雑な問題に対し、口頭もしくは書面をもって回答させながら教えるという方法を好んでとった。
 長崎の海軍伝習所では、蘭学の授業で「黒板」が使われていたことがわかる。黒板の字を何で消したかはわかならいが、ひょっとしたら「ラーフル」は海軍で使われていた用語かもしれない。
 また、『増訂明治事物起原』はによると、文久3年(1863)に、徳川幕府の学問所であった開成所(この年に洋書調所を改称したもの)の教官神田孝平が、一種の黒板を自作し、蝋石で書いて海綿で消したのが、我が国における黒板の最初であろうという。この本では、「黒板」のことは「ブラックボルド」「ボールド」、「チョーク」は「白墨」、「黒板拭き」は「字消し」と言っている。博識のこの著者石井研堂も「ラーフル」という語は耳にしていなかったらしい。
 神田孝平は、明らかに西洋の三点セットを見知っていたと思われる。この人は、島津斉彬とも親交の深かった蘭学者伊東玄朴(シーボルトの弟子)や杉田成郷(玄白の孫)にオランダの学問を学び、数学の教官になった人である。数学の教授上とても不便であったので、黒板の自作を思いたったという。適当な材料がなかったので、硯石として有名な黒い雨畑石を粉にして、松煙煤と混ぜたものを、洗い張り用の姫糊で溶かしてから、広い紙の上に塗って作ったという苦心作である。白墨の代わりに蝋石を用い、「字消し」として「海綿」を使っているところが興味深い。なお、神田孝平は、明治新政府の発足と同時に、一等訳官に任ぜられて西欧の経済問題の紹介にあたり、明治5年(1872)には兵庫県令になって、教育知事と言われた。
 日本における「黒板」の使用は、蘭学とともに始まり、字を消す物としては正式には海綿を使っていたことがわかったが、「ラーフル」という語そのものは出てこない。
10.明治の小学校における黒板3点セット
 日本の学絞教育史を調べてみると、教室で本格的に黒板が用いられたのは、明治5年(1872)に東京師転学校が創設された時が最初である。初め教師は一人であったが、それには前年に大学南校(東京大学の一源流)の英語教師として来日していたアメリカ人M.M.スコットが招かれた。その時、彼がアメリカから取り寄せて用いたのである。その後、全国各地に小学校が設立されるに伴って、必需の教授用具としてまたたく間に普及した。
 明治5年の時点で、「黒板拭き」としてどんな品物が使われたか、何と呼んだかということは残念ながらわからない。『増訂明治事物起原』で、「ボールド」・「白墨」・「字消し」と言っていることは、前述の通りである。なお、この著書には、「明治6年2月26日付、東京日日新聞に、西洋白墨売捌き高木寿栄の広告文あり。白墨はボールド用品なり」ともあり、「白墨」は輸入品であったことがわかる。
 なお、白墨の国産第1号は明治12年(1879)である。これは、大阪の雑貨輸入商であつた杉本富一郎が中国のオ}ジョウ産の石膏原石を輸入、独自の焼成法によって焼石膏を製造して、水で練り棒状に固めたものである。
 明治14年(1881)の大阪府北区若松小学校における「白墨・ラーフル費」の「白墨」が、まだ輸入品であったか、すでに国産品であったかは分からない。また、その白墨を消す用具が輸入品であったか国産品であったかも分からない。「黒板拭き」は特殊な材質を要するわけではないから、早くから大阪で作られていたのではなかろうか。その「黒板拭き」が大阪ですでに「ラーフル」と呼ばれていたことは確かなのである。
 大阪は古くから物流の拠点であったから、学校用品も大阪発が多かったのではなかろうか。特に、西日本への影響は大きかったであろう。
11.蘭学から英学へ
「ラ一フル」がオランダ語からではないかということについては、我が国の明治初期における蘭学から英学への急速な傾斜も状況証拠として上げられよう。
 大阪の適塾で熱心にオランダ語を学んだ当の福沢諭吉が、安政6年(1859)に、五カ国条約(前年に幕府が米蘭露英仏の5カ国と締結した通商条約)で開けたばかりの横浜に見物に行き、外国人との意志疎通には、オランダ語でなく英語を学ぶべきだと痛感したくらいであった。彼はただちに英学に切り替えた。日本の開国後、それまで蘭学や日本の初期の外交に重要であったオランダ語の役割は急速に弱まっていったのである。
 黒板が日本の公教育で本格的に使われだした頃には、蘭学の時代は完全に終わっていたのである。「ラーフル」は、「フラフ」「タアフル」同様、蘭学とともに衰退していったものと思われる。 「ラーフル」という呼称は、このきわどい運命的な一時期に発生したことになるが、鹿児島などでこんなにも使われてきたのには、周圏論的な事情のほかに、それの必然的な地縁もあったのではなかろうか。ここで、もう一度、古くから「ラーフル」という語を使っている地域を見てみると興味深い共通点に気づく。これらの地域は、幕末の頃は、薩摩の島津斉彬、長州の毛利敬親、宇和島の伊達宗城、肥前の鍋島直正という、いずれも藩主自らが蘭学に熱心で、藩士にも大いに学ばせた所である。
 例えば、『戊戌夢物語』を書いて、幕府の鎖国政策を批判し、いわゆる”蕃社の獄”(1839)でお尋ね者になった高野長英は、脱獄ののち伊達宗城を頼って宇和島に身を潜め、蘭学を教授したりしている。その彼が最後に鹿児島へ逃れてきたのは、島津斉彬と長英の関係が並々ならぬものであったことを示しているばかりでなく、伊達宗城と斉彬が兄弟のような親交を重ねていたからだと言われている。なお、長英が去った後の宇和島には、長州藩のまだ無名であった蘭医村田蔵六(緒方洪庵の適塾出身で、後の大村益次郎)が招かれて蘭学の指導に当っている。また、島津斉彬と親交のあった肥前の鍋島侯、その侍医であった伊東玄朴らも、高野長英を庇護し、彼の学才を生かす工夫をしたようである。
 この高野長英の一件を見ただけでも、当時これらの地域が、いかに蘭学に熱心であったかがわかる。「ラーフル」がオランダ語だとすると、これらの地域には、このような外来語を受け入れる素地が十分にあったと言えよう。「ラーフル」という語は、近代日本の夜明けをもたらした蘭学の置き土産ということになろうか。
12.方言周圏論としての「ラーフル」
いつの時代でも、事務室のカタログを見る機会の少ない先生たちは、たまに製品に「ラーフル」と表示してあるものがあった場合に、この語に出会うことになろう。鹿児島県の場合もそのような事情で使われ始めたことが考えられるが、それにしても、あまりに古くから、あまりに広硬範囲に、あまりに徹底して使われ過ぎていはしないか。
 「黒板拭き」はもともと教育用具であるから、使う側から言うと、「ラーフル」は学校用語である。学校の先生が使う「ラーフル」という呼称を生徒が知り、社会に出てからもそう呼ぶことになる。現在の鹿児島県における「ラーフル」という語の全県的な使用の原因としては、小・中・高校の教職員の人事異動が奄美諸島を含めての全県交流方式だということもあろう。しかし、昔から中央集権的な色彩の強い日本の公教育の世界では、教材・教具の呼称や教育用語あるいは学校用語というものは、全国で統一的であるのが普通である。それなのに、鹿児島県の先生たちが「ラーフル」という呼称をこれほど使うようになったのには、何か特別の事情があるのかもしれない。念のために、検討しておく必要はあろう。
 「ラーフル」が外来語で、昔、特定国の外人教師が鹿児島の師範学校に赴任したということはないか。鹿児島県師範学校の職員録を、創立の明治8年から大正15年まで調べてみたが英語の外人教師さえも見当らなかった。直ちに「ラーフル」の発生源そのものになるような事情はないようである。
 他方、この品物を供給する側からはどうか。鹿児島市にでも「黒板拭き」の製造販売会社があつて、明治・大正の頃から「ラーフル」という商品名で、県内の各学校に大いに売り込んだことはないか。現在の業者や商工会議所連合会に問い合わせてみても、そのような形跡はない。
 学校用品として、「黒板」「チョーク」「黒板拭き」の3点セットが使われたのは、全国どこの学校でも同じであったはずだが、その「黒板拭き」を「ラーフル」と呼ぶ特別の事情が鹿児島県内に無いとなれば、「ラーフル」という語は、大阪発のいわゆる方言周圏論的な現象ということになろう。
 ただし、いわゆる方言周圏論の図式どおりではない。東日本には、業界のカタログ用語としての「ラーフル」は有るにしても、世間での使用実態は無い(明治初期は使われたが、急速に消えたという事情でもないようだ)から、大阪発の波紋は西日本だけに広がったのであろう。これは業界における、当初の物流販路の関係と思われる。そして、その後、東からの「黒板拭き」「黒板消し」という呼称の波が被さってきて、まず大阪の「ラーフル」が消え、和歌山のが消えして、今では、兵庫県・岡山県・山口県・大分県・佐賀県に少し、愛媛県、宮崎県、鹿児島県には色濃く残るというような周圏的な分布になってしまったのであろう。 
13.おわりに
以上のように、いろいろな視点から状況証拠を並べてみると、「ラーフル」の語源としてはオランダ語の‘rafel”である蓋然性が最も高い。幕末の蘭学界において、便宜的な「黒板拭き」の雑巾を「ラーフル」と呼んでいたものが、明治初期の大阪で一時期、オランダ語の「フラフ(旗)」「タアフル(机)」「ランプ(洋燈)」などと共に学絞用語として引き継がれ、メーカーの業界用語にもなったと思われる。それが関西(大阪・愛知)発の品物と共に西日本各地の学校に普及した。
その後、業界用語としては命脈を保ってきたが、学校用語としては東からの共通語風の「黒板拭き」「黒板消し」に押されて方言周圏論的な状況になってしまったということになろう。 今年は日蘭交流400周年でもある。この「ラーフル」という語には、ここまで生き残ってきた根強さもあり、今後残り続けるスマートさもある。「ラーフル」と口ずさんでみただけで、本当に、黒板の字が「楽に拭ける」ような感じがする。愛用していきたい呼称である。
 なお、現在、「ラーフル」に付着したチョークの粉を吸い取る箱型の電動掃除機が普及しつつある。メ}カーや販売会社のカタログには、「黒板拭き掃除機」や「黒板拭きクリーナー」という名称で出ているが、鹿児島の学校や官庁では、自然発生的に「ラーフルクリーナー」という語が使われている。インターネット上の文章の中にも見え始めている。需要側が先行しているわけである。この洒落た感じの呼称も間もなく、供給側の業界用語として認知されることであろう。

注略

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