ふるさと歴史探訪  top  探訪記へ
鹿屋市大姶良地方の史跡・文化財 
大姶良地方の地名は、鎌倉時代頃に藤原性 祢寝氏(冨山氏)が現在の大姶良地方に繁栄し、大姶良、郡本、浜田、横山、獅子目氏等の庶家の名前に起因し、現在もその名残を残ている地名が残っていた。これらの地域には大姶良城址や岩戸神社、含粒寺等の社寺、本坊原千人塚や将監塚など合戦跡など大姶良地域の歴史を示す貴重な史跡がたくさんあった。これら史跡探訪を通して、平性祢寝氏、肝付氏や島津氏とのつながり等、この地域ならではの史跡・文化財の一端にふれることができた。 
 大姶良城址  岩戸神社 瑞雲山竜翔寺    含粒寺 年貫神社  
 鷹直神社  本坊原千人塚  将監塚  首塚・胴塚  備 考
大姶良城跡と八幡神社  鹿屋市大姶良町
 鹿屋市大姶良町麓にある大姶良城は、十二世紀の頃(1182年〜1183年)、藤原姓禰寝小太郎義明によって築かれたとされる。俗に大姶良十三城といわれ、内城、松尾、西野、野頸、冨山、三河、蜂須賀、尾勝、中之、東之、南之、獅子目、浅井城等が散在する。その後肝付氏に属したり、南北朝時代、志布志の楡井頼仲が攻め寄せ居城し、後に大隅守護職の島津六代氏久が大姶良に入った。氏久の子、元久(島津氏七代)も大姶良城で正平18年(1363)に誕生している。氏久は元久の成長を願って大姶良城下に若宮八幡宮を建立した。これが現在の八幡神社である。
 
大姶良城跡遠景
 
大姶良城空堀跡
 
大姶良城跡山上の祠・
石碑
八幡神社 
八幡神社は 元久の無事の成長を祈って創建された。
 
大姶良城真向かいに位置する八幡神社
 
八幡神社社殿
 
 八幡神社境内石碑・ 手水鉢
 
嘉永ニ年の刻碑

ps参考関連外部サイ: 肝付氏とのつながりを示す氏久と元久の逆襲供養塔
 
平成18年に発見された肝付町道隆寺跡で発見された6代島津氏久と7代元久の逆修供養塔
 岩戸神社と庚申塔   鹿屋市大姶良町
 横尾岳の御在所山という山の八合目位のところに巨岩(高さおよそ20m、廻り約20m)がある。その少し下に洞窟があって、その穴の中にまた大きな岩がある。これが岩戸神社のご神体である。その下に神社があったのだが、人里から遠く不便なために現在の場所に遥拝所として新たに造立したものである。創建の年は不明だが永禄2年(1559年)再建の棟札が残っている。ここの神は疱瘡の神で昔天然痘などが流行したときなど村人の参拝が絶えなかったという。鳥居右側に庚申塔があり、八本の腕を持つ青面金剛像八臂は珍しいという。
   
 岩戸神社鳥居
 
八本の腕を持つ珍しい庚申塔

 瑞雲山竜翔寺(ずいうんさんりゅうしょうじ)跡   鹿屋市大姶良町
 鎌倉末期に建てられた当地方で最も古い寺で玉泉和尚の建立。玉泉和尚は日本百僧の一人に数えられる名僧で2回入唐し、2回目の帰朝の時暴風雨の為、錦江湾の「あしが港」(浜田海岸)に着いたという。ここに呑海庵(どんかいあん)を建てて住んでいたが、後に大姶良城にあった楡井頼仲の求めにより、大姶良城下に竜翔寺を建立したという。後に興国元年(1340)志布志に移り 「大慈寺」を建立し開山となった。島津6代氏久は竜翔寺2代剛中(ごうちゅう)和尚に深く帰依した。氏久は嘉慶元年(1387)伊集院で死亡したが、遺命により大姶良竜翔寺に葬られ氏久夫婦の墓塔もあったが昭和50年頃鹿児島の島津墓地に移されたという。
 
氏久夫婦の墓地があったとされる瑞雲山竜翔寺
   
 境内跡に残る石塔群
含粒寺及び石造群     南町
南町は大姶良川流域にあり中世は姶良、西俣に属し、近世南村は島津氏の重臣鎌田氏の持切在であった。古代から人々の生活の場となり縄文時代の遺物や住居跡<山下(やまげ)地区>等が多数発見されている。 
含粒寺はもともと吾平町門前にあった寺で、南北朝時代、島津7代元久の子仲翁守邦が開山した。明治2年廃寺となった後、南の玄朗寺と合体させて含粒禅としたものである。ここの石造群は見事で、仁王像2対、地蔵、観音、薬師などが残る。特に六地蔵塔は永禄八年(1565)の庚申供養に結集した人々の氏名が墨書きで記されている。六地蔵信仰と庚申信仰の習合体としては県下で一番古いものとされる。
 
 含粒寺山門
   
対の仁王像
   
庚申供養に結集した人々の氏名が墨書きされた六地蔵塔
 
山下の古石塔群(含粒寺境内)
 年貫神社  南町
 創建は不明、再建は永禄9年(1566年)で肝付半左衛門の棟札がある。例祭では五穀豊穣を祈願感謝して田の神舞が奉納される。(市指定文化財)、
 
年貫神社
 
神社周辺の空堀
 年貫神社に伝わる田の神舞の説明版
 本坊原千人塚  南町
 この地では島津氏対肝付氏の最後の戦いがあり、島津義久(16代)、以久(垂水島津家2代)、歳久、、家久等と肝付の将、野間武蔵丸、肝付兼亮等が横尾山上の陣の尾、大姶良城、西俣城と戦い、最後の戦いがこの地であった。この戦いの時の戦死者を葬った塚であったといわれていたが最近の農地整備により塚は全部なくなり本坊原入り口に祈念碑だけが残っている。
 
本坊原入口
 
本坊原千人塚跡記念碑
 鷹直(たかなお)神社   横山町
旧横山村の村社で後方の高野山の頂上にあったが火災で現在地に移ったという。創建は不明であるが延元元年(1336)との説もある。門前の仁王像は切子田の庚申講中の四人が寄進したものである。参道に大きな仁王像が一対建てられている。「口碑によると、この神社には老猿がいて神の使いをするという。これが村里にあらわれれと災難が起こるといって恐れられ、そこで申の日に猿祭りを行うのであると。猿が使いをするところは、年貫神社と七狩長田貫神社だけだという。当社には黄金の鷹が祀ってあった。この神社の下には大きな用水池があって、ここには神亀が住んでおり、よく野里の彦尾神社に神使すると伝えられている。」(鹿屋市史) 
   
 鷹直神社
   
 阿吽の仁王像
 
神亀が棲むという池

現地案内板
将監塚         横山町
南北朝時代、当時大姶良一族(大姶良氏、横山氏、志々目氏・浜田氏)は肝付氏の支配下にあったが肝付一族の下風に立つのを喜ばず、正平6年(1351)島津方につき横山城に立てこもった。 本格的に大隅に侵入しようとした島津軍とこれを防ごうとした肝付軍との戦いで大姶良軍は破れ、戦死、或いは逃亡した。横山将監はこの地で肝付軍に取り囲まれ自決して果てたという。
   
 将監塚
首塚・胴塚   横山町
 和銅6年(713)大和朝廷は、日向国を割いて大隈国を分国した。郷土の隼人達は、大和の行政下で不満を募らせて、ついに養老4年(720)大隈国司陽候史麻呂(やこのふのひとまろ)を殺害し、大反乱となった。続日本記によると翌年養老5年7月に至って隼人を平定したことを記している。「斬首捕虜合わせて千四百余人」とある。ここは征隼人持節大将軍大伴旅人が殺した隼人族の死体を埋めた場所ともいう。その後、殺した隼人達の供養の為に大和朝廷が死者の冥福を祈り、放生会(ホウジョウエ)を営んだという。後に秋の豊穣(ほぜ)祭りとして残っている。又、正平6年(1351)横山城合戦の折の両軍の戦死者を埋めた場所ともいう。
 
首塚・胴塚
備考 
 大姶良地区
現在の大姶良地区(中学校区)は、旧鹿屋市の南部に位置し、1941年以前は下堀町を除き大姶良村の大部分を構成していた。次の町名がある。大姶良町、南町、獅子目町、田淵町、飯隈町、池園町、荻塚町、下堀町、横山町、星塚町があり、古い時代の歴史が偲ばれる町名が残っている。
 作成に当たって
このサイトの作成に当たっては個人のふるさと探訪やNPOが主催するフィールドワーク時の資料を基調にして作成しています。写真はすべて探訪時に撮った写真に依るものですがデータ縮小のため100kb以下に画質を落としています。主な参考文献<鹿屋市史、案内説明文、大隅国探訪(監修隈元信一氏)>最終更新日 2015/7/16
 ふるさと歴史探訪
史跡をめぐるとふるさとの歴史が見えてくる
ふるさとの歴史を知るとふるさとの文化が見えてくる
ふるさとの歴史と文化を知るとふるさとの未来が見えてくる

ふるさとの歴史を子どもたちに、そして未来につなげよう
歴史探訪Count