南紀白浜・串本 和歌山県西牟婁郡白浜町 TOPへ
南紀白浜 
 
南紀白浜は海岸沿いを中心に温泉施設・宿泊施設が立ち並び、西日本有数のマリンリゾートとしてたくさんの人が訪れる。
  白浜は南紀白浜とも呼ばれ、和歌山県南西部の白浜温泉を中心にした観光の町で、付近の海岸には白良浜、円月島、千畳敷、三段壁などの名勝地があった。特に三段壁の洞窟は、熊野水軍に関する伝説等見所がいっぱいあり、もう少し時間をかけて探訪したい場所だった。     HP作成日2012/06/30   探訪日2012/05/21
 白 良 浜  円 月 島 千 畳 敷  
 三 段 壁  熊野水軍追記  M A P
白良浜
 「白浜」の呼び名のもとになった「白良浜(しららはま)」はまぶしいほど白く輝く壮大な白砂の海岸が640mにわたって続く。珪酸を含む白いサラサラの砂と椰子の葉パラソルが南国のトロピカルムードを創りだし関西有数の海水浴場になっている。夏の海水浴シーズンには60万人を超える海水浴客が当地を訪れ、年間を通してたくさんのイベントが開かれ100万人が当地を訪れるという。2006年環境省による快水浴場百選のほか、1996年に日本の渚百選に選定。
 
白く輝くサラサラの砂がトロピカルムードを盛り上げ、夏には弧を描く浜辺にそってカラフルなパラソルが咲き乱れる
 
「白浜」の呼び名のもとになった白く輝く白良浜は白浜温泉の景色を縁取り、南紀白浜のシンボルとなっている。
   
年間を通してたくさんのイベントが開かれ、特に夏のシーズンは多くの海水浴客等でにぎわう。
円月島
円月島(えんげつとう)は海食洞が島の真ん中にあいたユニークな姿から名付けられた。正式名は「高島」といい、臨海浦の南海上に浮かぶ南北130m、東西35m、高さ25mの小島で国の名勝指定。 円月島に沈む夕陽の美しさは格別で「和歌山県の夕日100選」にも選ばれている。近年風波による自然崩落が心配され、補修の手だてが必要とされているという。
 
南紀白浜のシンボル「円月島」
   
 円月島の海蝕洞を通して四双島灯台を覗く(左)。 夏は6時30分頃、冬は4時30分頃、日の沈む美しい夕景を見ることができるという。
千畳敷
 千畳敷は、太平洋に突き出た広大なスロープ性砂岩である。このでこぼこの岩畳は第三紀層のやわらかい砂岩が打ち寄せる荒波に長い間浸食されてできたものとされる。海に向かって広大な岩畳が広がり、岩畳まで下りてゆけるので、海の広がりと潮風を思う存分楽しむことができた
 
太平洋に向けて突きだした白く柔らかい岩は第3紀層の砂岩の大岩盤が、打ち寄せる荒波に浸食され壮大な景観を創っていた。 
 
海に向かって広がる広大な岩畳
 
和歌山県朝日夕日百選指定の標柱
三段壁
 三段壁(さんだんべき)は千畳敷に続く南の海に直立する高さが40から50m、長さ2kmにも及ぶ巨大な屏風岸壁である。昔、魚の群れや船を見つける監視場(見段・見壇みだん)があり、これが転じて三段壁と呼ばれるようになったという。エレベーターで地中を降りると、200mに及ぶ洞窟の通路内には、弁財天が祀られ、史料に基づいて再現された熊野水軍番所小屋や、鉛の採掘跡があり、波の打ち寄せる潮吹き岩が迫力ある光景を醸し出していた。
 
断崖絶壁に立つ案内板
 
千畳敷の太平洋南海岸にそそり立つ高さ50mの断崖
 三段壁の地底洞窟探訪
   
 エレベータで地下36mの三段壁地底洞窟へ
   
 地底洞窟に降り立ち太平洋を望む
   
色々な形をもじって「十像岩」と名付けられ奇岩。案内には世界的にめずらしい奇岩「十像岩」として記してあった。
   
順路に沿って進むと入り口に近い洞窟一角には源泉洞(左)があり、水の神様と呼ばれる牟婁大弁財天(右)が祀られていた。
   
 さらに洞窟奥に進むと史実に基づいて復元されたという熊野水軍小屋があった。  ※下記追記
   
波が打ち寄せる三段壁洞窟内部。 岩肌に黒潮が激しくぶつかり合う音と波飛沫に圧倒され、大自然の迫力を感じた。
追記:三段壁熊野水軍に関する資料 
 
 ※熊野軍船図追記:熊野では室町時代から江戸時代にかけてすばらしい大型の軍船が活躍していた。「あたけぶね」または「あたぎぶね」と呼ばれた安宅船である。大きいのは二千石、小さいのでも五百石積みで五十丁から百六十丁の艪(ろ)を備えた二千石船になると鉄砲玉を防ぐため船の前後左右を厚い木の板のタテで囲み、タテの一枚一枚に蝶つがいをつけて自由に開閉できるようにしていた。戦いではこのタテを開いて一斉に鉄砲や矢を放って攻撃したが艪をこぐ水夫百人以上、戦闘用の武士百人以上が乗り組み大将が指揮さしずめ旗艦だったその軍船のふるさとが古くから西牟婁郡日置川町安宅tp言われて来た。南北朝時代の中ごろここに本拠を置いた安宅一族は阿波淡路紀州にまたがる紀伊水道を抑え熊野水軍の一時代をつくりあげたという。(洞窟内の熊野水軍軍船図説明文より)
 
 源氏と平家が激しい戦いを繰り広げていた頃、熊野水軍は、熊野別当湛増(武蔵坊弁慶の父)に率いられて壇ノ浦の合戦に馳せ参じ、源氏の大勝利に多大の貢献をしたといわれる。これには次のような故事がある。
湛増は元々平家方として知られていたが、我が子弁慶の要請もあり、どちらに加勢すべきか迷っていた。そこで田辺の宮の神前で、紅の鶏を平家、白の鶏を源氏とみて七番の闘鶏を行い、神意を占った。 結果は七番とも白鶏の一方的な勝利であった。 これにより湛増は、神は源氏につけとのお示しと拝受し、熊野水軍に源氏方への加勢を呼びかけた。 そして直ちに総勢二千余名が二百隻の船に分乗、源平両軍が対峠する屋島ノ浦に向かって田辺の湊を出発したのである。屋島ノ浦では両軍が、姿をあらわした船団を見つけ、敵か見方かと見守る中、船上に仁王立ちになった湛増が大音声に 「紀国熊野新宮に仕え奉る七代の熊野別当湛増、神威を奉じて源氏の軍に馳せ参じ申した。率いるは熊野水軍二千余名、船艘二百。 神意を伺い奉るに『氏に味方せよ』との仰せである。 神意は絶対である。 いざ、熊野水軍の力のほどをお目に掛けよう」 源氏の軍から湧き起こる大歓声。熊野水軍のこの参戦は源氏にとって、百万の力にも値したことであろう。 そしてこれが、源平合戦に終止符を打つ要因の一つになったのである。
 ///三段壁洞窟HP(熊野水軍のお話より)
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