椎葉村探訪  平家落人伝説由来の地「椎葉村」  
 
 椎葉村探訪~平家落人伝説由来の地椎葉村・平家まつり~
椎葉村探訪    民俗芸能博物館  椎葉村名所 鶴富屋敷   平家まつり   追記・記事
 平家落人伝説由来の地椎葉村探訪 椎葉村探訪 
 面積の約9割が森林を占める秘境の里、椎葉村へは大隅の地から車で片道約5時間の九州山地中央の秘境の地にあった。はじめに、鶴富屋敷を中心にして椎葉厳島神社や椎葉民俗芸能博物館などの名所をめぐった。椎葉民俗芸能博物館には、椎葉村の歴史や文化、平家の落人伝説資料等が展示してあり、日本の民俗学の基礎を築き、方言周圏論者としても知られる柳田國男に関するコーナーに興味が湧いた。この日は平家まつりで狭い町中はまつり一色で彩られていた。メインの大和絵巻武者行列と、短い時間ながら念願の椎葉神楽の一部を目の前で鑑賞することができた。今回の椎葉村探訪は、民族学発祥の地、ひえつき節発祥の地、神楽の宝庫、平家落人伝説等といろんな顔を持つ椎葉村を体感する有意義な旅となった。機があれば椎葉夜神楽見学を兼ねて今回探訪できなかった八村杉や大久保のヒノキなどの銘木・巨木、大河内原生林、椎葉の名滝などの自然探訪に再チャレンンジしたい。椎葉村探訪日 2013/11/9
椎葉栗の尾神楽舞風景 
   
椎葉栗の尾神楽舞(国指定重要無形民俗文化財)
   椎葉民俗芸能博物館
 椎葉民俗芸能博物館 平成9年四月にオープンしたという真新しい椎葉民俗芸能博物館。館内の数多くの椎葉村の民俗文化や芸能、慣習、民具、祭礼具等の資料展示ももさることながら柳田國男資料コーナーの展示が目をひいた。日本民族学の先駆けで方言周圏論者でもある柳田國男は、椎葉村で七日ほどフィールドワークを行い、その経験をもとに柳田民俗学の出発点ともいうべき『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』(明治42年、1909年)を記している。  
 柳田國男に関する資料と顔写真 




柳田國男資料展示コーナー
椎葉村の郷土芸能、生活・慣習等の資料展示風景

 
   
 椎葉村伝統芸能臼太鼓踊りの展示
   
  椎葉村の生活の歴史や慣習を偲ばせる展示品
  椎葉村名所
椎葉村名所探訪    椎葉村には、鶴富屋敷を中心にして、椎葉厳島神社、吉川英治の碑、鶴富姫化粧の水、鶴富姫の墓などの名所があった。
   
 鶴富屋敷「那須家住宅」
大八郎と鶴富姫が過ごした屋敷とされる。
 
椎葉厳島神社 
清盛が創建した厳島神社を那須大八郎がをここに分社した。 
   
 鶴富姫の墓 鶴富姫化粧の水(鶴富姫が化粧に使ったとされる湧き水) 
   
吉川英治筆跡〝ひえつき節〟の碑 「 庭の山椒(さんしゅう)の木 鳴る鈴かけて 鈴の鳴る時ゃ 出ておじゃれヨー」 
   鶴富屋敷(重要文化財)
 鶴富屋敷とは
 
 那須大八郎と鶴富姫の悲恋の舞台となった鶴富屋敷の造りは、家屋前面に縁を横一列に長く配置した一列型平面型式で、築年数は、建築技術からおよそ300年(江戸時代後期)と推察される。規模が大きく本格的な民家風の構造を持つ日本の民家としては極めて重要な建物として、昭和31年6月28日「那須家住宅」として国指定重要文化財に指定。指定当時は茅葺(かやぶき)だったが、昭和38年から火災防止のため銅板葺きに変更された。この日、平家まつりでは、鶴富姫お披露目や鶴富姫と大八郎の逢瀬の場となった。
   
 家の長さ、25.09m、奥行き8.64mある寄棟づくりの銅板葺き屋根の現在の鶴富屋敷。国の重要文化財指定当時(昭和31年)当時は茅葺屋根だったが、昭和38年から火事防止のため銅板葺(ふ)きになった。
 鶴富屋敷の屋根  
屋根の九本の千木(ちぎ)が社殿造りを想像させるが歴史的には千木は屋根の葺き材の押さえとしての役割を持ち、江戸時代には千木の付いた民家があった。
鶴富屋敷の間取り    
 
でい(客間)  背面は全て戸棚

 つぼね(寝室)
 屋敷の間取りは、家屋前面に縁を横一列に長く配置した一列型平面型式で部屋の背面は全て戸棚が造り付けされていた。 向かって左より「コザ」(神仏を祭る場所)、「デイ」(一番広い部屋で客間)、「ツボネ」(寝室、夫婦の部屋で、お産の部屋にもなった)、「ウチネ」(茶の間)と呼ばれる四室と、「ドジ」と呼ばれる土間のある造りになっていた。
  椎葉平家まつり「鶴富姫と大八郎の逢瀬」「大和絵巻武者行列」 
椎葉平家まつりとは 椎葉村の「椎葉平家まつり」は、今から800年前の壇ノ浦の戦いで破れた平家を追ってきた源氏の武将・那須大八郎と平家の鶴富姫との悲恋の伝承にちなんだ祭りだ。昭和60年(1985年)に始まり、今年(平成25年)で27回目を迎えるという。鶴富屋敷では「富姫お披露目」、「鶴富姫と大八郎の逢瀬」が行われた。まつり最大の見せ場は華麗な時代絵巻「大和絵巻武者行列」・「郷土芸能」パレードで、せまい沿道はあふれんばかりの人出で賑わっていた。
鶴姫と大八郎の逢瀬 
























 鶴富姫お披露目・鶴姫と大八郎の逢瀬
  長い廊下が続く縁前の庭には鶴富姫のお披露目や鶴姫と大八郎の逢瀬のシーンを一目見ようとする観客やカメラマンでごった返していた。
 
源氏方の登場を今か今かと首を長くして待つ観客
 
源氏方の登場
 
甲冑姿の大八郎一行が登場
 
大八郎を迎える鶴富姫
 
逢瀬がかなって鶴富姫方、源氏方勢揃い
   大和絵巻武者行列 
 大和絵巻武者行列   
平氏鶴富方   
   
 大和絵巻武者行列   平氏鶴富方
大和絵巻武者行列 
源氏・大八郎方   
   
 源氏・大八郎方
  追記(関連資料)
鶴富屋敷とは  鶴富屋敷(那須家住宅)
  国指定重要文化財 那須家住宅 指定年月日 昭和31年6月28日。構造 桁行 25.09m 染間 8.64m 形式 一重寄棟造茅葺東西庇附属。椎葉村の民家はすべて同じ形式の民家として知られているが、この家はその代表的なものである。間取りは部屋を一列に横に並べた形式で向かって左より、こざ、でい、つぼね。うちねの四室がならび、その右に、とじ(土間)がある。各室は前面をしたはら(広縁)内部をおはらといい、背面にはすべて戸棚を造り付けにしている。民家としては規模が大きく、しかも太い材料を用いた本格的な構造を持ち、民家特有の美しさをよくあらわしている。小屋組はさすを組み合わせ、屋根は寄棟造りで茅葺であったが、昭和38年に銅版に葺き替えられた。鶴富屋敷ともいい、平家落人の伝説と共に古い歴史をもつと伝えられる。日本の民家としては極めて重要なものとして重要文化財に指定された。
昭和56年9月29日 椎葉村教育委員会  現地案内板より
鶴富姫伝説とは  鶴富姫伝説とは
今から約八百年前、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平家の武士たちは、山深い椎葉の地に逃げ延びつつましいくらしを送っていました。この平家一族のことを知った源頼朝は那須大八郎に落人の追討を命じますが、貧しい彼らの暮らしぶりを目の当たりにした大八郎は追討を断念。彼らに農耕の手ほどきをし、厳島神社を勧請するなどして彼らと共にこの地で暮らすようになります。やがて大八郎は平家の末裔である鶴富姫と恋に落ちますが、鎌倉からは帰還の命が。すでに懐妊していた鶴富に「男子が生まれたら我が故郷下野の国へ、女子なら遣わすに及ばす」と言い残し大八郎はこの地を後に。月満ちて鶴富は女子を出産し親子共々、椎葉の地で穏やかな日々を送ったと伝えられています。この二人の悲恋の物語を歌った「ひえつき節」は今もこの地で歌い継がれ、語り継がれています。(パンフより)
  柳田男「方言周圏論(ほうげんしゅうけんろん)」とは 
 方言周圏論とは 古い時代の言葉は、文化の中心地から周辺部へ円を描くようにして同心円状に広がっていったと考えられる方言分布の解釈の原則仮説の一つで方言周圏論(ほうげんしゅうけんせつ)とも呼ばれる。柳田國男が自著『蝸牛考』(かぎゅうこう、1930年)において提唱し、この説をもって自らの民俗学の基本原理ととらえた。
   ひえつき節
 ひえつき節とは  ひえつき節はもともと椎葉村で稗搗き作業の時に唄われていた労働歌で、昭和初期に、酒井繁一氏が、椎葉に伝わる大八と鶴富姫の悲恋物語を題材にして創作した歌詞が、現在の稗搗節だという。
ひえつき節歌詞    1.庭の山椒(さんしゅ)の木 鳴る鈴かけて ヨーオー ホイ
鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれヨ
2.鈴の鳴るときゃ 何と言うて出ましょ ヨーオー ホイ
駒に水くりょと 言うて出ましょヨ
3.おまや平家の 公達(きんだち)ながれ ヨーオー ホイ
おどま追討(ついと)の 那須(なす)の末ヨ
4.那須の大八(だいはち) 鶴富(つるとみ)捨てて ヨーオー ホイ
椎葉(しいば)立つときゃ 目に涙ヨ
5.泣いて待つより 野に出て見やれ ヨーオー ホイ
野には野菊の 花盛りヨ
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