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サツマイモ歴史探訪     鹿児島県指宿市山川 種子島西之表   <サイトUP 2016/10/7>
  探訪のねらい   鹿屋市串良の利右衛門供養碑の文字と功績を検証し、大隅のサツマイモ伝播の歴史を探る。
 大隅の地、鹿屋市串良にある利右衛門碑の文字を検証し利右衛門のサツマイモ伝播の歴史と功績を偲ぶために、利右衛門の生誕地、指宿山川の利右衛門墓碑と利右衛門を祀る特光神社を探訪する。日本一の甘藷栽培初地.、種子島の下石寺を探訪し、サツマイモ伝播の歴史を探る。
一、串良利右衛門碑
一、鹿屋市串良の利右衛門碑との出合い 
串良川流域を散策していると鹿屋市串良下中の堤防脇土手に水神を含む三基の石碑を発見。そのうちの一つ、向かって左の小さな高さ70cmほどの三角頭の板碑には一行目に「唐芋元祖」、二行目に「一翁祖元居士」の文字がはっきりと刻まれた利右衛門の碑が建っていた。石碑に刻まれたこの文字がサツマイモ歴史探訪への好奇心をかき立てた。利右衛門のサツマイモ伝播の歴史と功績を偲び、大隅のサツマイモ伝播の歴史を探るため、碑に刻まれた「一翁祖元居士」の文字を手がかりに、利右衛門の生誕地、指宿山川の利右衛門墓碑と利右衛門を祀る特光神社を探訪した。
  串良町下中の三基の石碑
串良川流域 串良町下中の三基の石碑 一番左側が利右衛門碑 
石碑に刻まれた文字   
二行目「一翁祖元居士」の文字 
 
 一行目「唐芋元祖」の文字
 大隅半島に残る
利右衛門碑
 
大隅半島に残る利右衛門碑

 二、利右衛門
生誕地探訪
二、利右衛門の生誕地 山川探訪  2016年3月4日
 利右衛門碑探訪  利右衛門墓碑探訪   
利右衛門墓碑は、指宿市山川町岡児ヶ水堂の間にあった。墓石には、「一翁祖元居士」の文字が刻まれ、鹿屋市串良の下中にある利右衛門の供養塔碑の文字「一翁祖元居士」と一致した。 墓前には前田利右衛の功績をたたえる頌徳碑が建ち、前田利右衛の多大な功績を偲ぶことができた。
前田利右衛門墓石   
前田利右衛門墓石
墓石の文字     
利右衛門の法名「一翁祖元居士」の文字は鹿屋市串良の供養塔碑の文字と一致した。 利右衛門は、享保4年(1719)に死亡し、甘藷をもたらしてから14年は生存していたこともわかった。

頌徳碑    ①墓石前の利右衛門の功績をたたえる頌徳碑<弘化の頌徳碑>
 
頌徳碑側面
 
 頌徳碑正面
墓石案内板   
前田利右衛門の墓石案内板 
前田利右衛門(山川郷岡児ヶ水出身)は、1705年(宝永2)琉球から鹿児島県に初めて甘藷(サツマイモ)の種芋を持ち帰り、全国に広め、大切な食料として多くの人々を飢餓から救った。

 徳光神社探訪    徳光神社探訪  
前田利右衛門墓石近くの利右衛門を祀る徳光神社には、“甘藷翁頌徳碑碑”をはじめ、幾つかの石碑が建っていて、前田利右衛門の功績が偲ばれた。広々とした境内には、“甘藷翁頌徳碑”をはじめ幾つかの石碑が建ち、前田利右衛門の功績が偲ばれた。
 
徳光神社は鹿児島県指宿市山川にあり、別名「からいも神社」とも呼ばれている。
 徳光神社境内の
頌徳碑
 
大正の甘藷翁頌徳碑:1915年、社殿を改築し大正の頌徳碑建つ。

明治の頌徳碑:1873年、明治の頌徳碑が建ち徳光神社となる。 
 徳光神社説明版  
神社境内の徳光神社案内板

ps:開聞岳登山を兼ねて山川の利右衛門墓碑と徳光神社探訪2016/3/4
 三、日本甘藷栽培初地
種子島歴史探訪

三、日本甘藷栽培初地 種子島探訪    2016年9月25日
今回、日本甘藷栽培初の地とされる種子島へのサツマイモ伝播の歴史を知るため、種子島の下石寺を訪ねた。
 種子島へのサツマイモ伝播  第19代種子島島主久基(栖林)は、元禄11年(1698年)3月琉球王尚貞に懇望して、一籠の甘藷の寄贈を受けた。家老の西村時乗に栽培を命じ、西村は西之表下石寺の休左衛門にこのイモを試作させ、苦心の末に栽培を可能とした。因みに7年後に山川(鹿児島県)の前田利右衛門が甘藷栽培を行い、甘藷先生と呼ばれた青木昆陽はこの年、元禄11年(1698年)に生まれている。
 西之表市下石寺
日本甘藷栽培初地の碑
 
日本甘藷栽培初地の碑のある西之表市下石寺神社
 
日本甘藷栽培初地の碑
 日本甘藷栽培初地碑
案内板
 
日本甘藷栽培初地の歴史を紹介する案内板
サツマイモ物語案内板  
からいも物語<種子島のサツマイモの歴史を紙芝居風にして掲示したからいも物語がおもしろい>
 日本甘藷栽培初地案内板     
日本甘藷栽培初地の石碑の他にいくつもの案内板が見られ日本最初の甘藷栽培の地が強くアピールされていた。   
 下石寺神社  
別称カライモ神社と呼ばれる下石寺神社

   ps:種子島探訪を兼ねて西之表下石寺に立ち寄り取材。 2016/9/25

 四、サツマイモ歴史探訪からの学びと検証 四、サツマイモ歴史探訪検証から/ 鹿屋市串良の利右衛門碑の意味 
 鹿屋市串良の利右衛門碑の意味 さつまいも歴史探訪のきっかけになった大隅半島笠野原台地の谷間にある串良町下中の利右衛門石碑に刻まれた「唐芋元祖」の「唐芋」は、琉球からの第二次伝播からの呼称で、サツマイモの栽培が18世紀、大隅半島にも広く及んでいたことが分かる貴重な文字であった。山川にある利右衛門墓石に刻まれた「一翁祖元居士」の文字は串良下中の利右衛門碑の文字と一致した。利右衛門のサツマイモ伝播の功績をたたえる文字で串良下中の碑も利右衛門の功績を偲び、恩恵に授かった土地の人々の感謝の気持ちを表した供養碑であることが分かった。しかしこの石碑が利右衛門の供養碑だとしても笠野原台地の開けた所でなく、目の前に水田地帯が広がる串良川堤防の土手にありこれまで認識していたサツマイモ栽培地とのイメージが合わず不可解であったが利右衛門の供養碑と並んで建つ水神碑の「元文3年」(1738)の文字に謎を解く手がかりがあった。推論だが大隅の地でも1720年代までに唐芋の植栽が拡がり、大いにその恩恵を受けたであろう。串良下中地区では1730年代の後半、水利事業が進行し、今までの唐芋畑が水田化し、村の人々は水田化を喜び、水田を祀ると共に、唐芋畑に別れを告げ、水神碑とともにこれまで恩恵を受けた利右衛門の供養費を建て、追悼の意を表したのではなかろうか。栽培技術や品種改良を重ねながらやがて乾燥の強い台地へと移動し、笠野原台地にサツマイモが進出し、定着していくのは下中の利右衛門之碑が建った後の歴史だと推察、串良下中地区に利右衛門の碑があることに納得し、大隅のサツマイモ伝播歴史の一端にふれることができた。

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