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 城跡探訪 鹿児島城(鶴丸城) 鹿児島県鹿児島市      <探訪日2016/8/5>
 鹿児島城
(鶴丸城)
 
鹿児島城(鶴丸城)  <日本百名城  県指定史跡> 
 鹿児島城(鶴丸城)とは 鹿児島城(鶴丸城)とは 
鹿児島城は、17世紀初め、島津家久によって鹿児島城山の麓に構築された屋形造りの城で、江戸時代約260年間の島津家代々の居城となった。別名、「鶴丸城」の愛称でら親しまれている。築城は、城山にあった上山城との連繋の下で縄張りが行われ、天守閣などのない居館式の比較的簡単な造りで屋形造りの城であった。その後整備が進み、水濠と石垣に囲まれた本丸とそれに接続する二丸・下屋敷が設けられた。明治維新後、1873年(明治6年)には本丸が、4年後の1877年(明治10年)には二之丸がそれぞれ焼失してしまい、現在では本丸の石垣・堀・庭園(本丸と二之丸)しか残っていない。城の規模は、鹿児島城本丸、二の丸と御厩(おうまや)、城山を合わせて、約26万平方メートルとされ、本丸は現在の黎明館、二の丸は県立図書館から県立博物館辺りまで、北側にある鹿児島医療センターは、西郷隆盛によって作られた私学校跡である。
 本丸跡 城跡探訪<本丸>
  本丸の虎口は北門と東側の本丸大手門にあたる御楼門があったがこの御楼門は明治6年12月に城とともに焼失した。その後、この城跡には第七高等学校造士館、鹿児島大学医学部などが置かれたが、昭和58年10月に黎明館が開館した。今回の探訪で御楼門跡、石垣、水堀、御隅櫓等の本丸遺構が確認できた。
 御楼門跡   本丸正面の虎口御楼門跡
本丸正面の御楼門跡

 鶴丸城正面本丸の大手門にあたる楼門は、城壁などとは独立した建物であったことから御楼門と呼ばれている。探訪時、御楼門遺構の礎石調査が進められていて、本丸御楼門の復元計画が進行中だった
 
枡形虎口、ここに「御楼門」と呼ばれた櫓門があった。現在、御楼門遺構の大規模な礎石調査が行われていた。
 本丸御楼門入城口の石橋  
本丸正面の石橋と正面に御楼門跡、建物は現在の黎明館
明治初年の御楼門写真   
明治初年の御楼門写真<明治6年12月に城とともに焼失>
礎石調査      
 礎石調査中の御楼門跡
 御楼門跡案内板   
現地案内看板には当時の貴重な写真が紹介されていた
 石垣と水堀  石垣と水塀
 鬼門よけ石垣
石垣と水堀は東から北にかけて現存し、北東隅の石垣は鬼門除けで入隅になっていた。 
 
本丸北東角の石垣は魔よけとして石垣の隅を欠いていた。(中国の陰陽道では、北東の方向は鬼の出入りする「鬼門」に当たり縁起が悪いとされる)。
本丸 堀のハス   
初夏から夏にかけて本丸の堀のハスの花が訪れた人を楽しませてくれる。
 本丸北門 本丸北側の虎口北門
本丸北門の橋 

虎口北門
 本丸北側の虎口北門
 
本丸北門の橋
 
北門から本丸(黎明館)北口からの入口
御隅櫓   本丸城内の御隅櫓
御隅櫓遺構   本丸の南東の隅には楼門と連なり、城郭を構成する御角櫓御角櫓跡の碑が立ち、礎石の一部が残されていた。
 
 御隅櫓と御楼門の写真   
現地案内看板より
二丸門   二之丸門 
  二之丸跡には県立図書館と市立美術館が建っていた。現在の図書館の正門は七高時代の門柱で、ここは以前二之丸御門と呼んだ木造の門があり、天明5年(1785年)以後は矢来御門と改称されている。明治10年(1877年)9月24日(西南戦争 最後の日の早朝、官軍の攻撃によって二之丸は炎上し、築城以二百数十年つづいた屋形の歴史はその幕を閉じた
  矢来門(二丸門)
県立図書館
  
 矢来門(二丸門) <県立図書館正門> 
   
 二の丸(現在県立図書館)虎口
 鶴丸城二之丸跡説明板  
 下屋敷門(二丸門)   下屋敷門(二丸門) <市立美術館正門>
 下屋敷門(二丸門)
市立美術館
 
 戦跡遺構  戦跡遺構<西南戦争の銃弾跡>
西南戦争の銃弾跡  明治10年(1877)5月から、鹿児島の争奪をめぐり、政府軍と西郷軍の間に激しい攻防が繰り広げられました。特に、この私学校周辺では同年9月に、主として政府軍によって放たれた銃弾の跡が今でも生々しく残っています<案内板>。 
 
西南戦争銃弾跡
西南戦争
銃弾跡の石垣
   
 
 現在も生々しい銃弾跡の残る石垣
 私学校跡  私学校跡
私学校跡の碑と現在の建物  現在中央病院の建つ場所は江戸期には御厩だったが、維新後は征韓論に敗れて下野した西郷隆盛がここに私学校を創設した。
 
鹿児島医療センター
 
私学校跡石碑
 追記
城 の呼び名について:正式には「鹿児島城」、通称「鶴丸城」と呼ばれている。昭和9(1772)の史料では、鹿児島城は「鶴丸山之御城」と記され、天保14(1843)年の「三国名勝図会」によれば、城山の形が舞鶴に似ていることから「鶴丸山」と呼ぶと書かれている。<しおりから>
城の大きさ:加賀100万石に次ぐ七十七万石の薩摩藩の城にしては居城は極めて質素で天守閣のない屋形造の城であったが、外城制度という独自の軍事・行政の仕組みを作り、鹿児島城下のほか、藩内各地に外城(郷)をおき、多くの武士を配置して、外部からの侵入に備えていた。


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