北京世界遺産紀行「頤和園      top
 
 万寿山に頂上に君臨する頤和園のシンボル仏香閣
  頤和園(いわえん)は北京市の西北約10kmに位置、1750年、清朝第六代皇帝の乾隆帝が母の還暦を祝うために離宮として改造、総面積は290haで、その3/4を湖が占める。人工の湖、「昆明湖」を中心に仁寿殿、玉瀾堂、楽寿堂等、大小さまざまな宮殿が立ち並び、,掘った土で築かれた万寿山には 頤和園のシンボル仏香閣がそびえ立っていた。昆明湖に沿って造られた長廊は長さが728mにも及び、梁には14000枚の花鳥風月、歴史、古典の絵画が描かれていた。乾隆帝の時代からおよそ100年後の1860年、頤和園は第二次アヘン戦争によってイギリスとフランスの連合軍によって破壊され、それを再建し、いっそう豪華にしたのが清朝末期の西太后だ。健康に気を遣っていた西太后が住んだとされる「楽寿堂」や政務を執った「仁寿殿」など多数の宮殿が点在していた。頤和園の改修費は莫大であったため海軍の軍費を流用し、その為日清戦争で力を削ぐ原因にもなったといわれる。1998年に頤和園北京の皇帝の庭園として世界文化遺産に登録。
 頤和園・昆明湖風景
 
杭州にある西湖 を模して作られとされる人造湖の昆明湖
 
昆明湖望楼
 
 昆明湖に浮かぶ南湖島と十七孔橋遠景
頤和園を歩く
頤和園は中国で最も完全な形に保たれた最大規模の古代皇室の庭園で ある。高さ41mの八角形の華麗な香閣は頤和園のシンボルで排雲殿を中心とする宮殿式建築群は、西太后が誕生日を盛大に祝った場所である。昆明湖畔に沿って仁寿殿、玉瀾堂、楽寿堂等大小さまざまな宮殿が立ち並び、全長723mの長廊により、勤政区、生活区と遊覧区は一体に連絡されていた。
   
 頤和園入場口の東宮門
   
仁寿門 を抜けて仁寿殿の中庭に出る。
 
瑞獣の麒麟の像の先に見えるのが仁寿殿麒麟の像は 鹿の角、龍の頭、獅子の尾、牛の足からなり、全身はうろこ。 中国の伝説では「善悪を見分けられる仁獣」で、吉祥と威厳を表わすとされる。 
   
仁寿殿の鳳凰と龍。青銅製の香炉となっていて、お腹の中で香を焚くと口から烟を吐くようになっていた。 
 
 仁寿殿(にんじゅでん)は東宮門内にあり、政治区域の中心地。 西太后や光緒帝が政務を執り行ったり、外国の使節との会見など外交に使われた場所だ。ちなみに「仁寿」とは論語の「仁者寿(仁政を施すものは長生きできる)」から採った名前だそうだ。
   
玉瀾堂(ぎょくらんどう)。 仁寿殿の裏側、昆明湖畔にあり、第二次アヘン戦争で消失後、光緒帝により再建され、帝の寝宮として利用された。光緒帝と西太后が自分の死の前日、当時の権力者光緒帝を軟禁したあと毒殺させたと言われている。
 
 楽寿堂と建物正面の銅製の鹿、鶴、大瓶。「鹿、鶴、大瓶」は漢字の発音が「六合太平(=天下泰平:六合は天下・宇宙・上下・東西南北の六つの空間を指す)」につながり、縁起がよいとしてで置かれているという。。また中庭に植えられた玉蘭、カイドウ(海棠)、牡丹などの花木も「玉堂富貴」という言葉にちなんだものだという
 
 西太后の居室楽寿堂。四合院形式の建築で、堂の西が寝室、東が食堂。西太后は年老いてから頤和園での生活を好み、毎年4月から10月までここで過ごしたそうという。
 長廊を歩く
昆明湖に沿って造られた 長廊は長さは728mにも及び、梁には14000枚の花鳥風月、歴史、古典の絵画が描かれていた。
   
   楽寿堂から西に行くと邀月門(ようげつもん)に出てここから昆明湖に沿って長さ728mの長廊が西に延びる。
 
 長廊の途中には4つの東屋があって、それぞれ春夏秋冬をあらわしていた
 
回廊をつなぐ東屋
 
 長廊の梁には人物、花鳥風月などの山水、歴史、古典文学、神話などを題材におよそ14,000点もの絵が描かれていた。
 
 長廊の梁に描かれた「三国志」の中の有名な場面
   
五角、六角、円型などに開けられた廊下の窓は、空窓と呼ばれ、通風機能も果たしながら、昆明湖の秀逸な景色を眺める場所でもある。

   
   
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