歴史探訪  長崎編<日本の近代化を支えた産業遺産「端島」(通称 軍艦島) >
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 端島(軍艦島)    長崎県長崎市
 明治の産業革命遺産、世界文化遺産に登録決定 2015/7/5
日本の近代化を支えた端島を構成資産に含む明治の産業革命遺産23が世界遺産に登録された。先日探訪した瑞島(軍艦島)を世界文化遺産登録を記念してサイトへアップ。2015/7/6
 日本の近代化を支えた産業遺産「端島」(通称 軍艦島)は、小さな海底炭坑の島で、護岸が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになったという。長崎県長崎市(旧高島町)に属し、長崎市の西方約19キロメートルの沖合に浮かぶ島で正式名称は端島。南北に約480m、東西に約160m、周囲約1200m、面積約63、000uという小さな海底炭鉱の島である。遠景では鉄筋コンクリートの立ち並ぶ立派な高層の住宅群に見えたが近づいて見ると朽ち果てた無人の廃墟の島だった。朽ち果てた建物に生活の名残があちこち見られ、手つかずのまま残る廃墟の姿に圧倒された。高島石炭資料館では島の深い歴史や当時の生活を知る貴重な資料が展示してあった。

軍艦島全景
 
周遊船デッキからの軍艦島眺望 
 
軍艦島接近   
 
今も軍艦島に建つ廃墟の高層住宅跡右端に見える“百葉箱”に似た形のものは、端島神社で現在は祠のみが残っている。
 
島の中央部、白い塔は灯台で現在は太陽電池で稼働している。 
軍艦島の暮らしを偲ぶ<高島石炭資料館から>
 長崎市高島にある石炭資料館には、石炭で生活する島の暮らしや瑞島の歴史等に関する資料が多数展示してあり、かつての石炭採掘が最盛期だったころの軍艦島の生活を偲ぶことができた。
   
石炭資料館と館内の資料展示 
 暮らしの風景<石炭資料館展示資料から>
 
 
 道端や「子供遊園地」が青空市場になり、多くの住民と行商人で賑わっていた。
 
瑞島では木々を育てる場所がなかったため、PTAなどが協力してアパートの屋上に土を運び、花や野菜、稲を育て、これが日本初の屋上菜園だったといわれている。「緑なき島」に少しでも緑を増やし、安らぎのある空間を求める人々の工夫や努力が伝わる光景だ。
瑞島(軍艦島)の施設 
 瑞島には宿舎を含め学校や病院、神社など70もの建物があり、全盛時には、郵便局や理髪店もあり、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設もそろっていたという。七階建ての鉄筋コンクリート造りの高層アパートは日本最初の高層アパートで日本の高層住宅の先駆けになったという。 

瑞島の主な施設<軍艦島模型から> 
 
かつての瑞島(軍艦島)<資料館展示の模型より>
 埋め立ての変遷
 
 瑞島(軍艦島)の歴史と今後
瑞島では、1810年頃に石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採炭を行っていたが、1890年三菱合資会社の経営となり、本格的海底炭坑として操業が開始された。出炭量が増加するにつれ人口も増加し、狭い島で多くの人が生活するため1916年には日本初の鉄筋コンクリート造りの高層集合住宅が建設され、最盛期には約5、300人もの人々が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度にまで達した。エネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで、出炭量も人口も徐々に減少し、1974年1月に閉山した後は同年4月に無人島になった<パンフより> 。このように炭坑閉山後、長い眠りについていた瑞島だが2014年1月29日に世界文化遺産に推薦され、2015年7月5日に「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産の一つとして登録されたことでこれから新しい歴史が刻まれようとしている。一方、世界文化遺産として登録はされたものの瑞島に残る歴史的建造物はかなり荒廃が進んでおり、施設管理維持のための課題が目の前に大きくはだかっている2015/7/6
 

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