城跡探訪 高隈城(松尾城)      鹿児島県鹿屋市上高隈町 
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 城跡探訪 高隈城     鹿児島県鹿屋市上高隈町 
 高隈城跡遠景  
史跡 高隈城跡(白石松尾城ともいう)    最終更新日2016/5/6
 高隈城とは  高隈城跡とは
 高隈城は、中世の初め頃から当地方を支配していた肝付氏の私城として構築されたものと思われるが、南北朝時代の山城として築城形式をふんでいる。
 南北朝時代から戦国の世にかけて大隅方面の戦乱舞台にたびたび登場してくる。
 正平6年(1351年)7月11日、この城によった南朝宮方の楡井四郎頼仲(遠江の守)を北朝武家方の畠山直顕の命を受けた祢寝孫次郎清種が攻め、翌日これを落とした記録がある。
天文7年(1538年)及び11年に新納氏・肝付氏・祢寝3氏の攻防戦も行われている。 城郭は、本丸、二の丸等にわかれ、西面は高隈川を利用した自然の水濠にし、土塁、空堀、木戸口をほぼ完全に残す。<現地案内板より>
本丸跡を目指す  本丸跡を目指す 
松尾城は高隈町重田にあり、本丸、二之丸、木戸、空堀等も歴然としており、本丸にあった松の大木も昭和20年頃まであったという。本丸へは民家の裏手に谷筋に沿って登城口があり、途中、桝形もあり、南北朝時代の山城跡の形式を偲ばせていた。
それぞれの郭は空堀と深い谷で仕切られ、空堀と尾根沿いに15分程歩いた山頂に本丸跡標柱が立っていた。、本丸の郭には土塁を確認できた。 
虎口     
民家の裏手から谷筋に沿って登城
 桝形  
桝形が見られ、中世の山城の代表的な形式を残す山城だった。
空堀途中の壕     
桝形近くに掘られた突き抜けのトンネル。この洞窟は終戦間際、空襲を避けるために日本軍が掘った穴で山城の歴史とは関係無いようだ。
 本丸跡を目指して    
それぞれの郭は空堀と深い谷で仕切られ、途中、急坂斜面を這い登って二の丸・本丸跡を目指す。
 城道脇の深い壕     
城道脇の深い壕 
本丸郭跡へ     
急坂な空堀を登り切ると緩やかな傾斜となり、本丸跡は目の前だった。 
松尾城本丸跡標柱    
郭内の中央部に立つ松尾城本丸跡標柱
 本丸南郭から眼下の眺望   
本丸南郭の木々の間から眼下に国道504号を眺望できた。
 追記 高隈城(松尾城)追記 
城内から粉挽用の石臼やかまどの石などが発掘された。城下の武家屋敷跡には、いまなお当時のおもかげを残す石垣、木戸などが残されている。この城は西南戦争(1877年)の際も利用されたという。また城下には鈎引き祭で有名な中津神社が祀られている。島津国史によると、松尾城の東およそ1kmのところに地頭館があったという。
当時の沿革を三国名勝図絵にみると、当村は肝付氏領であって、観応2年(1352年)、 禰寝清種等が楡井頼仲党を攻め抜いたとか、あるいは島津以久領となり、享禄(1528年)の頃は新納忠勝領、永禄(1558年)の頃は肝付兼続に属し、そのあとい伊集院忠棟の所領とかわり、文禄4年(1594年)には細川幽斎が豊臣秀吉から与えられた。慶長4年(1599年)になるとまた島津氏に帰した、とある。その屋敷跡というのは城の西の方の山下にあって高隈川特有の石の築垣が残っている。
<鹿屋市史より>
   高隈城跡案内板
 史跡高隈城跡案内板
 国道脇の看板と駐車場    


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