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 城址探訪 姶良市平松城     鹿児島県姶良市平松字上星原(重富小学校) 
平松城とは   1554年、(天文23)9月から始まった岩剣合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激戦は岩剣城の落城によって終止符が打たれた。この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになった。しかしながら山頂から麓までの道は大変険しく、義弘は麓に平松城を築き、これを居城とした。これが平松城の始まりである。元文2年(1737)に再興された越前島津家の私領として帖佐号郷から重富郷が分立される。平松城は幕末までその領主館として利用された。明治維新後、平松城の跡に建築されたのが現在の重富小学校である。古い野面積みの石垣が良好に保存されていた。2016.10.23
   平松城外概観 <大手門址 館の広場 背後急峻な岩剣山>
平松城外観   
大手門址は現小学校正門にあたり、石垣前面の広い舗装道路は、「館の馬場」と呼ばれ、幅11メートル長さ275メートルある。背後に急峻な岩剣山がそびえる。
  平松城跡標柱

平松城石垣 

 平松城跡標柱

平松城石垣 
平松城
野面積みの石垣
 

 篤姫のテレビ番組の撮影にも使われた野面積みの石垣
  平松城跡の歴史 <案内板>
 平松城跡の歴史看板  
平松城跡の歴史説明文  戦国時代の天文二十三年(1554)、岩剣合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城の落城によって終止符を打ちます。この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかしながら、山頂から麓までの道は大変険しく、日常生活には不便でしたので、麓のこの地へ館を築きます。これが平松城の始まりです。
義弘は慶長五年(1600)の「関ヶ原の合戦」直後にもしばらく在城し、慶長十年(1605)から翌年にかけて帖佐からこの城に移り、加治木へ移るまでの居館としました。その後、当城には島津義弘の夫人や娘の御屋地様が晩年を過ごしています。江戸時代中頃の天文二年(1737)、藩主島津継豊は、弟の忠紀に鎌倉時代以来の名家である越前島津家を再興させます。翌年には帖佐郷から脇元村・平松村・船津村・春花村・触田村を割いて「重富郷」と名付けます。これ以後、平松城は越前(重富)島津家の領主の館となり、一帯には麓と呼ばれる家臣団の屋敷地が計画的に整備されていきます。天明の頃、城内には藩内初期の学校である振業館が建てられました。幕末維新に活躍する島津久光(島津斉彬の弟)も若い頃越前家第20代当主としてこの平松城に住んでいます。明治維新後、この地に重富村の役所や学校が置かれます。正面の石垣は野面積みと呼ばれる古い積み方です。体育館のある北東の土地は鬼門でしたので昔は石垣が南へ折れ一段低く積まれていました。また石垣前面の広い道は、「館の馬場」と呼ばれ幅11メートル長さ275メートルあります。最後に、小学校正面にある門柱は、以前鹿児島県庁の正門として使用されていたものを移築したものです。 現地設置の「平松城の歴史」説明板より

  歴史の舞台となった岩剣城跡 
 岩剣城跡  
   岩剣城は享禄2年(1529)頃に蒲生氏により築城された山城で、天文23年(1554)島津氏との間で戦いが行われた。戦後は初陣を飾った義弘が3年間城番をつとめた。山頂に二段の削平地、一部に石塁をもつ土塁などが残っている。

   正門の門柱
 小学校正門の門柱  
   正門の門柱は,大正14~15年にかけ,旧県庁のものが移設された。



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