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検見崎城跡  肝付町(旧高山町)後田
検見崎城跡は旧高山町の後田、論地にあり、本丸、二の丸、三の丸の他、東側から西方下段にかけて、空壕や馬乗馬場の跡が確認されている。検見崎城は、肝付氏初代兼俊の四男兼友が検見崎を名乗り、鎌倉時代から代々城館を構えた場所と伝えられる。城跡には、鎌倉時代から南北朝時代にかけての五輪塔や室町時代から戦国時代と推定される宝塔があり、いずれも検見崎氏の墓と伝承されてきた。案内板によると江戸時代の文化10年(1813年)鹿府(鹿児島)検見崎家二十世伴兼明が城跡の阿弥陀堂前に初代兼友の供養塔と由来碑、灯籠を建立し、高山郷昌林寺に布施をし、検見崎家先祖代々の供養を頼んだ。兼明はその後文政十三年(1830年)検見崎家の家族及び資産をもって、肝付本家二十七代を相続した。検見崎城は鎌倉時代初期の築城であるとすれば地理的にも歴史的にも南北朝時代以降の防御を中心とした山城ではなく、肝付城の支城としての役割を果たす領主館だったと考えられる。

 検見崎城跡探訪
   
城内への入り口 城内の阿弥陀堂跡・石塔群
   
 初代兼友の供養塔と関連石塔 六地蔵塔・石像・板石塔婆・五輪塔 
   
石塔灯籠に記された伴兼明の文字(左)と肝付氏を表す蓮弁刻出の宝篋印塔(右)。石塔には文化10年(1813年)の印があり、兼明( 検見崎大右衛門)が初代兼友の供養塔と灯籠を建立したことが分かる。
   
西方下段にかけて見られる空堀跡
   
 検見崎城跡案内板

 
 
 
 
 

 
 笠石の蓮弁刻出(れんべんこくしゅつ)は肝付氏をあらわしており相輪の文様、伏鉢(ふせばち)の刻出は時代的に見て肝付氏二代兼経夫妻のものと言われる
 向かって左側男性の塔の高さは3.06m、右側女性の塔は2.12m。両石塔はまれにみる古い形式で、明らかに鎌倉前期のものであり、頂部には宝珠をのせ上部請花の構成と笠石上部の蓮弁刻出が肝付氏を表し、時代的背景から肝付2代兼経夫妻の宝篋印塔であると言われている
 備考:南紀・熊野古道へ向かう途中の大阪湾大阪南港のさんふらわあ号船上の甲板で金環日食を迎えた。気象状況は曇り時々晴れ。撮りためた旅の写真整理を兼ねて遅ばせながら世紀の天体ショウ「金環日食」をペ−ジUP。
 
 
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